アンドレアス・グルスキー展、アメリカンポップアート展、カラーハンティング展に行ってきた



六本木の国立新美術館で行われているアンドレアス・グルスキー展アメリカンポップアート展
21_21 DESIGN SIGHTで行われているカラーハンティング展に行ってきた。


そもそもグルスキーに関してはTumblrで何度か見かけたり色々な機会にちょろっと写真を見かけた程度では正直あまり惹かれるものがなく期待しておらず、ともあれ現代アートだし、という感じで勢いで観に行った感があったのだが、
アメリカンポップアート展と併せて2800円の価値は十二分にあったなあという感じで、多分カタログの売れ行きも桁違いなんじゃないだろうか。あれは手元に欲しくなるぞ。


グルスキーの作品は、全てにおいてCtrl+C,X,Vが絡むデジタル加工画像であるという点においてほとんどCGに近い手法ではあるのだけど、「写真」という四角のフレームをあくまでも前提に置き、被写体とその影までもが基本的にその直線に合わせて配置され、平面の構図が厳格に守られていることで写真としての説得力を保っている。このフレームへのこだわりこそが、グルスキー作品の異常なまでの密度の濃さを担保している。


そしてその全てが、「気持ち悪い」
どの写真も基本的に超鳥瞰的な視点からなっているのだが、そこにぶちまけられている情報がことごとくフィルタレスのロウ・データといった風情で、本来独立して一つのフレームに収まっているべきものが無理やり大きな一つのフレームに押し込められ、上から秩序の封を押されているような、なんともいえない息苦しさを感じる。
それは北朝鮮マスゲームを一枚のフレームに収めた『ピョンヤン』シリーズにまさしく代表されており、その空ろな調和はLAの100均の棚を等間隔に配置した『99cent』で強調される。棚、そして天井からぶら下がる蛍光灯によって縛り付けられた空間の中に各自過剰なラッピングを施されて詰め込まれた商品たちの姿は、コンテンツのブタ箱と呼ぶのがふさわしい。
このギャップがもたらす不快感というのはなかなかのものだ。ざらついたような印象を目に受けるのは、この俯瞰で読み解くという構図のあり方が文法的にはアスキーアートのそれに重なるのだけど、材料を構成する一つ一つのパーツが精巧な一枚の写真として成立しているために、一度に届く情報量が人間が処理できるキャパシティを超えている(少なくとも処理に当たっての基礎となる常識的な感覚は軽々と超えていると言える)からなのだろう。
同展示のカタログ内にて、担当学芸員氏も俯瞰の視点と各オブジェクトの微細な描写の二つが同時に写真の視点として存在しているんだよー的なことを書かれていた。


心を奪われた作品は数多く、挙げればきりがないが、
ベトナムの椅子工場の内部を写した『ニャチャン』は、横に走る蛍光灯が画面を分断するなか、浮きまくりの蛍光オレンジの作業服を着た無数の作業員たちが寄ってたかって椅子を織り上げていく様子が詰め込まれており、そのパーツは太くてしなやかな植物の繊維の束で、近くで観ればそれは工場見学にも似たチームワークと手工業の精巧さを楽しむ一つのアミューズメントだが、引いてみるとそこには奇妙にのたうつ線虫の群れに警戒色を背負った無数の蟻のような生き物が群がる異常な光景が浮いてくる。
バンコクの川面を接写した『バンコク』シリーズは、初見では印象派の油絵にしか見えない茫洋とした光と色の斑点が、近づいて冷静に観察することで、ゴミと産業排水で脂ぎった川の表情である現実へと変わっていく様が面白い。
海洋を繋ぎ合わせ、濃紺の上に潮をあたかも顔の皺のように描き出した『オーシャン』が来訪者の人気を集める一方で、セブ島のゴミ山やフィリピンのスモーキー・ヴァレーのような無数のゴミをバラックの周りにかき集めゴミの海を作り出した『無題13』という写真も展示される。ビニールやペットボトルキャップなどで埋め尽くされたゴミの海の表面は、遠目に観れば雪原のようにも見える。
パリ・モンパルナスの四角いアパルトマンを端から端まで繋ぎ、窓にかけられた様々なチープな色のカーテンでモザイクを描いた『パリ、モンパルナス』は特に衝撃的な作品で、画一的な四角の連続が薄ら寒い白みがかった空を頂く様子は、まるで外界で生きていくことのできない人間が一つの大きな繭の中にコロニーを形成しつつも、己が生命のありかを主張せずにはいられない様子を描いたかのようで、とてもSF的だ。


こうした文脈があった上で活きてくるのが、件の3億円写真の『ライン川2』だろう。
ジョギングコースから建物を切り取り、純粋に川と緑だけが視線に並行するシンプルな情景、
そこには他のグルスキー作品のどれにもない、ただ一つの動線が一貫して走り抜けていく、
生命のあり方そのもの――循環を表すかのようなミニマルの極致。突き抜ける開放感に投げ出され、
グルスキーの物語はハッピーエンドを迎えるわけだ。


意図的な情報の飽和を用いたグルスキー作品は、写真としてのこだわりに敢えて固執することで、逆説的に写真の限界点を示し、同時に現代社会における「一つの視点」が持つ限界をも見事に示してみせている。行き過ぎた公平さが、よく言えば宇宙的、悪く言えばグロテスクな情景を生み出す。偏重のない世界というのが人の手に余るのは、人の価値観が帰属意識に基づくものだからだ。グルスキー作品はそうした人の限界を抽象の世界で追求した現代アートの傑作だ。



上手いなと思ったのがこの展示の上にロイ・リキテンスタインアンディ・ウォーホルを担ぎ出した新美のやり口で、
展示の顔に冒頭の画像にあるウォーホル『200個のキャンベル・スープ缶』を持ってくることで、グルスキーの『99cent』との比較ができるようにしてある。こちらの展示もまた実に見事で、60年代以降のアメリカンポップアートが一挙におさらいできるという豪華な構成。
ナマでウォーホルの『マリリン』を観ることもできる素晴らしい展示だった。
他にもロバート・ラウシェンバーグがバラバラにした段ボールそっくりに鋳造した鋼板に彩色を施して元の段ボールに見せかけた「イデアの代入」とでも言うべき『カードバード』や、ポップカルチャーの視覚的雛形と言っていい巨大なパレットを描いたジム・ダインの『ロング・アイランドのスタジオ』などが目を惹いたが、個人的に最も印象深かったのはウォーホルが電気椅子をモンローと同じモチーフに起用していたということ。
『マリリン』の彩色が人の顔から表情を消し記号化するためのフィルターであるのに対し、同じアプローチであるはずの『電気椅子』は、明らかに色が主体となっていて、暴虐的な色の乱舞が、まるで電気椅子で高圧電流を食らった時の死刑囚の視点のような恐ろしい印象を与える。
それ自体がポップの象徴として語られる『マリリン』が、実はそういう虚無を見つめる視点から作られたものであったことに気づかされたことは、今日の二番目の衝撃だった。


画一性の中の虚無感というのがわかりやすく存在しているのがアメリカのモダンアート。
だが、グルスキーと同じ俯瞰視点を構図に用いた『200個のキャンベル・スープ缶』には、グルスキー作品にあるような猥雑さは存在しない。
そしてグルスキー『99cent』には、本来あるはずの虚無感が見えない。
物量によって秩序を構築しようとした大戦後のアメリカ文化、それをさらに先鋭化させ、世界をコンテンツで埋め尽くすことによって、ついに一分の虚無感の漏れも出さぬようにした現代社会の姿。両輪揃って初めて見えてきた病巣だ。アートとしての本懐を遂げた素晴らしい仕掛けだった。



色を道具として使い倒した新美の展示の後に観るデザイナー向けの色の実験展示、カラーハンティング展も良かった。
色もまた音等と同じ波形の一つであるという認識に基づいて、色を音化したり、言葉を色化したりといった属性の変換・代入は行えるか?という実験が行われている面白い展示だ。
特に面白かったのが、アフリカ・マサイ族居住地の土の色を再現したテーブルの上に、ライオンの色を移したシューズをモーターカーに載せて自由に走らせるインスタレーション。前述のラウシェンバーグの『カードバード』を髣髴とさせる、イデアの代入がここでも行われている。たとえ自然の表情であっても、記号化できればその本質は手元で再現可能だ、とでも言わんばかりの光景は、まさに現代人の意思が透けて見えるようで、薄ら寒くも面白い。



戦中・戦後に大衆に押し付けられた全体主義が、大戦のために行われた情報工作の一環なのだとしたら、
現代はその負の遺産の成果に埋め尽くされ、自然発生した摩擦熱で煙が絶えず上がるスモーキー・ヴァレーそのものだ。
荒れ狂う情報の波に適応していく、つまりメディア・リテラシーを身に着けるだけでは、この危機を乗り越えることはできない。
情報の山を選り分けて、炎上の種を見つけ、交渉によってそれを取り除いていくという慎重な作業が、
すべての現代人に求められる技能に違いない。
六本木の優れた展示会はそういうメッセージを発しているように自分には思えた。