サムライチャンプルー(&カウボーイビバップ)を観終わった

微ネタバレ。


感無量。


まさか自分でもここまで思い入れがあるとは思わなかった、というのが、
エンディングを観ての第一印象。
この圧倒的な旅情感、余韻。
サムライチャンプルーを観終わる前にカウボーイビバップを観終わっていて良かったと思うのは、
チャンプルーがビバップとは正反対の正の余韻を残していたところだ。


どちらも流浪人同士が緩やかにつるむという形を取りながら、
反対の結末を辿ったのは何故なのか。
言い換えれば、なぜスパイクはムゲンやジンが至った境地に至れなかったのか。
結局空気が読めすぎたのが原因だったような気がする。


スパイクは過去に生きていながら、過去を現在に活かそうとは決してしなかった。
それはムゲンやジンも同じだが、二人はフウとの旅という時間を経て、
力を人のために使うということについて学び、
力が生むエネルギーが鬱屈した形としての憎しみや恐れという感情を
別の形で発散しうるということを習得することができた。


しかし、ビバップ号の関係性では同じ旅をしていてもそれは不可能だった。
ビバップの面々は初めから擬似家族としてのコミュニティを求めていて、
滞留し続けることを目的としていたからだ。
それがフェイにとってのセーフティネットにもなったわけだが、
終盤の悶着からの終わり方は、まさしく全員が肥大したエゴを持て余し、
暴走した果ての爆発と言って良かった。
それは同時に、これまで狩ってきた賞金首が、彼らにとってはただの仮想敵でしかなかった、
ということを意味している。まさに酔生夢死を地で行く展開だ。


サムライチャンプルーにおける「敵の(斬られ役にしては異常な)強さ」は、
単に作品全体のバランスの問題だけでなく、ムゲンとジンが
己がエゴを世界に叩き付けた結果だと思えば、妙に納得がいく。


キャラクターやストーリーが脳裏に克明に刻まれる作品というのはそうそうないが、
渡辺信一郎作品は徹底した感情の映像化でもってそれを達成している。
優れた絵画が遠大な歴史のパノラマ写真だとすれば、
この2つはさながら未来と過去に置き去られた8ミリビデオカメラだ。
キャラクターの前にまず世界があり、出来事に対してのリアクションでキャラクターを表現する、
そしてその感情の移ろいをもってストーリーとする、
そういう物語創りの基本がこの上なくしっかりと押さえられていて、
そこには観る側への信頼も感じられた。
すなわち、人一人の人生は小話にはまとまらないということ、
それを理解してもらった上で、キャラクターに観る側が「付き合う」ことを前提とした、
空気への徹底した作りこみである。
そこには手軽なわかりやすさは無く、即効性のカタルシスは存在しないため、
必ず一定のついてこれない層を生むが、
「この風景がわかればいつかわかってくれるだろう」という優しい視線、であると共に真摯な祈りが、
渾身のイメージシーンに込められている。


いずれにしても、真の自由とは何か、ということを問い、
自分を肯定するとはどういうことか、という問いに答え、
全てのキャラクターを活かしきったこの作品たちを、
俺は絶対に忘れることができないだろう。