「ココ・アヴァン・シャネル」(Coco avant Chanel)を観た

俺は、本当の意味ではファッションに興味が無い。


そのことに気付けたというのは、アパレル業界で実際に働いてみたことで得られた、最も大きな収穫の一つだったと思う。
ファッションは好きではあるのだ。現に今でもネットでは毎日一通りのファッションニュースはチェックしているし、自分のワードロープを意識した服選びとライフスタイルの選択は、働いていた当時から今まで続いている。


だが、俺にはどうしてもファッションの持つ「『自己を演出』する」という目的が受け入れきれない。
何故なら、俺にとって自己とは常に「後付け」のものではありえなかった。いつどこにいてもここで物事を観ている自分という存在は絶対的で、何かに染まることも、拡大することさえもないという確信が幼少の頃から備わっていた。それ故に、ファッションは他者に自分という存在=自己を説明するための言語の一つでしかなく、それ自体が自己を変化させたりするようなことは無いと信じていたのだ。


良いファッションによってより良い印象を人に持たれた、それは自分がより良い人間になったということではなく、あくまで今まで以上に「自己」を伝えるのに成功したということに過ぎないと思う。


彼女は、どうだろうか。


「“シャネルのファッション”と言われるのは好きじゃないわ。シャネルは何をさておき、1つのスタイル。ファッションはすたれても、スタイルは残るものよ」


映画『ココ・アヴァン・シャネル 』オフィシャルサイト

結論から言えば、『期待はずれ、故に名作』といったところ。
俺がこの映画に期待していたのは、世界で最も有名かつ長命なファッションブランドの母が、いかなる「技術」と「哲学」をもって頂点に上り詰めたのかということに関する『説明』だった。
だが、これはフランス映画の文脈のなせる業なのか、それともこれが女の考えるサクセスストーリーというものなのか、この映画で描かれていたのは、徹頭徹尾ガブリエル=“ココ”=シャネルという女性のまっさらな存在そのものだった。


自分の中の『女』を武器に力ある男達の目を引き、彼らの力を利用して広い社交の世界に『シャネル・スタイル』を主張することに全力を傾けた彼女の姿が淡々と描かれる構成。彼女のデザインのスキルがいかに優れていたか、ということを知るためには、ごくごく少ない生地を裁断するシーンから観る側が推し量らなければならない。
それより圧倒的に多いのは、シャネル自身の「顔」を映すシーンである。毅然と、というよりは憮然とといった表現の方が正しいかもしれないその真剣な面持ちの中、黒く大きな瞳を光らせて、静かに何かを観ているシャネルの「顔」。その前には、彼女自身の出世も、つまびらかに描かれた恋模様も、親の無い孤独な出自も、その全てが意味を失くす。そんな存在感が、そこにはあった。


実は自分が違和感を感じたのはここである。
ほぼ恋愛映画といって差し支えのない構成の中、こうまで単体の彼女が取り沙汰されるのは何故か。それはこの映画において、彼女の絶対性が揺るぎないものとして設定されている証拠である。しかし現実に彼女がしたことは何か。名を売るために有力貴族の妾になった。その取引相手の実業家と浮気をした。
ブノワ・ポールブールドの演じる貴族エティエンヌ・バルザンは彼女に豪奢な部屋を与え、膨大な金を与え、社交界というこの世の最上級の世界を観る機会を与えた。俺はこのバルザンという男の大きさに痺れた。
彼は始め、シャネルという存在を失うことをまるで恐れず、“いつでもここを去るがいい”と言い続けた。その癖、城内での彼女の居場所作りには常に気を払った。例えば、歯に衣着せぬ態度の彼女を「野生児」と称して社交界という甘美な夢における貴重なスパイスとして紹介したり、自分のものであるはずのシャネルに実業家ボーイ・カペルが恋をし始めたことを知れば、嫉妬などよりも先にまず彼女の扱いについて誠意ある忠告をした。あまつさえ、シャネルの『気分転換』のために、ボーイと2日間二人っきりの旅に出すことを許しさえしたのだ。
映画では夢幻の世界にあてられた挙句恋人を盗られる哀れな愚者としての印象付けが強いキャラクターだが、それはあくまでも彼の小さな一面を表しているに過ぎない。事実、彼の与えた豊かな環境と見えざる繊細な心配りが、そして実業家ボーイがそれに加えた刺激と葛藤が、シャネルという女性の真価を引き出し、才能を本物にする機会を与えたのだ。
にも関わらず、彼らはことあるごとに置き去りにされる。まるで彼らそのものが数ある「機会」のうちの一つでしかなかったかのように、である。


俺はここに、恋という感情を理性と分離して持つ男と、一つにして持つ女との決定的な価値観の断層を見出したのだろう。



物語が佳境に迫るにつれ、最後に彼女は手段としてのそれではない本物の恋をし、やがてそれを失う。史実によればその後も彼女は恋を重ねるのだが、この時彼女は初めて結婚──即ち愛を、正式に諦めたのだと思われる。
かくして恋をすら自らの『スタイル』の中に取り込んでしまったシャネル。
しかし、彼女は「今の自分を不幸だと思うか」という質問には、答えることができなかったのである。


果たして彼女は幸せであったか……。
男達が自ら抽出し彼女に捧げた彼らの最も純粋なる個性としての恋をすら、『自分のもの』に昇華し尽した彼女の人生は、果たして不幸ではなかったか……。


「顔」が映される最後のシーン、コレクションで成功した時のシャネルの表情は、最後の最後でふっと漏れ出すような笑顔に崩れた。
それは母性か、流れる時のなせる業か、それとも後悔の昇華した形か。
大いなる謎を余韻に残されたのは、それ自体が、この映画がシャネルに捧げる賛歌であることの証だったのかもしれない。


何はともあれ、恋とライフスタイル、そして男と女の関係性について、これほど象徴的な、ある意味風流なアプローチで考えさせられる作品にはこれまで出会わなかった。
シャネルの存在は確かに女性を勇気付けるだろう。しかし、俺にはどうしても、まだ乗り越えるべき山が一つ残っていたように思えるのである。



それは、なんだろうか。