ものを書くということ


空虚な日々を送っている。


書きたいものを書こうにも何を書きたいのかわからず、いや厳密には書きたいものはいろいろと出てくるのだが、それはなにか他の名文のコピーであったり、衝動的な欲求を映写機に通しただけの断片的なシーンであったりして、そこに一本の筋が通らない。
その一方で、ただ生きるためにしなければならないことは山積していくし、誰も彼もが将来の見通しについて喧々諤々の大騒ぎをしている中、自分は電車に乗る金も無く、米と卵を食い、薄くなった手の皮の様子を見て過ごしている。


しかしながら、こうなってしまった理由はわかっている。
要するに、それは始めにいった様に、何を書いたものか──即ちどのように生きたものかわからなくなってしまったということなのだ。
ものを書くということは、元来自分が見たいものを見ようとするということであろう。
だが今は、自分に見たいものがないのだ。
現状に満足し切っているわけでは決してない。ないが、そのためになにをどうしようという気にもならない。
すべての欲望は幻想で、それを現実にするためには、いかな空想の物語にしろ、地道な事実の積み上げが必要になる。


面倒な仕事だ。


欲望は欲望、幻想は幻想として、なんの脈絡も無くそこにあっても良いじゃないか。
なぜあらゆるものが計画的でなければならないのだろう。
理想が、それが生まれた瞬間に現実になるような、そんな世界を、人はなぜ面白く感じないのか。
誰もが幸せになるのに理由を欲しがっている。自分もそうだ。
本当はそんなもの、いらないのに。


でも直に幸せになろうと考えた時に胸をよぎる違和感はなんだろう?
それは世間体だろうか、良心だろうか、それとも、
絶望だろうか。


「林檎が食べたい」と思った時に、
こころの中で林檎の木を育て、その実──金色でもいいし虹色でもいい──を齧る……
それは愚かなことだろうか。
惨めなことだろうか。
そういうことをする人は、他に林檎を食べる術がないからそうするのだろうか。
自分には、それが人の条理に反したものであるとは、どうも考えられないのである。


しかし、こういう考えに行き着いてしまうあたり、
自分というのは、つくづく人に合わせるのが苦手な人間なのだと思う。
自分は、100%人に流されるか、100%人を排除するか、そんな選択しかできない極端な人間なんだ。
だから多分、自分のような人間は、ものを創ることでしか、人とは交流できない。
なにか良いもの──自分がこころから良いと思えるものを創って、それを良いねと言ってもらうことでしか、
自分は、人とこころを交えることができないのだと考えている。


だから、もっぱら最近の自分にとって、ものを書くということは、
人を愛するということに似ていると思う。