選択されるもの、選択の前にあるもの

終戦記念日だー、ということで仕事上がりに靖国神社へ行ってきた。
そこには元旦とそう変わらない光景が広がっていて、違いといえば時間帯からかその筋の人が少なかったことぐらいだろうかw
とはいえ本殿の前はさすがにそんなのお構い無しに混みまくっていて、
参拝までは長い時間を取られた割に、後ろに人がつかえている分お祈りの時間自体は挨拶程度のものにしなければならなかった(だから人のいる神社って厭だ)。


んで、こういうことを書くとすぐにそういうことに疎い人には所謂「そういう系」の人なんだ、という印象を持たれるのが、トレンチコートを着たら露出狂だと言われた、というような感じで困るけど、当然俺は露出狂じゃないし、それと同様にただ御紋の下に集うことに意義を見出すような人間でもない。


そもそも、自分のような戦争どころか戦後すらも肌で感じていない世代が、英霊を悼むことができるだろうか。
むせ返るような土くれの匂いと、そこにべったりと塗りつけられた血糊と臓物と皮脂糞尿髪の毛の匂いと、それをすら押し切らんとするように捻じ込まれる火薬や金属の匂いを知らず、それを発する「もと」について何かを参照することでかろうじて知ることができる程度の者が、戦争の是非を語ることができるだろうか。
そのような者が戦争を非とする時、その理由として自分が痛い目を見たくないから、というごく卑近な動機以外に何を添えられるのだろうか。
俺は、そういう者が英霊を「悼む」という行為そのものが、無礼なんじゃないかと思ったりしている。わからんものはわからんのである。
まぁ、わからんなりに今の平和を導いてくれてありがとう、と感謝したりすることもできるのかもしれないけど、生憎俺の生活は全然平和じゃないので、それも選択肢にない。


だから、何をしにいったのかといえば、問いに行ったのだ。
運命に命喰われた貴方達よ、貴方達の見た「平和」という夢とはどのようなものだったのか、と。
貴方達が守ろうとした「国」とはどのようなものだったのか、と。


今でも、今日のように然るべき時に然るべき場所へ行けば、「日本人たらんとする日本人」に出会うことができる。
あるいはそれは日本という「国」そのものかもしれない。
だがそれは、ハレの日に覗く一瞬の煌きのようなもので、ケの日々に見出せるものではない。


「日本人は祭り好きだ」と誇らしげに語られる時がある。
しかし、いつの頃からか、「日本人だから祭り好き」というよりは、「祭りの時に日本人であることを思い出す」というような状態になっている。
ハレの日に日本を感じれば感じるほど、日頃大いに揺らぎ霞む国家観とのギャップの中に、この国において既に「国」の実体は遺産に過ぎず、あるいは儚い泡沫のような祭りが、イベントたちが「国」と呼ばれているのではないか……というような思いが浮かぶ。




“見だらそうなる”

ぼのぼの』のいがらしみきおさんの単行本の新刊『I【アイ】』を書店で見かけて、


「幼い頃からずっと考えてきた、生と死のこと。命の意味。その先にある“答え”を、今なら描ける気がする」


といういがらしさんの言と、彼自身が現在進行形の被災者であり、この作品が連載中のものであることに惹かれて購入した。
もともと哲学的な論題に対してホラーちっくな手続きでアプローチしようとする人だったのが形振り構わず書いてるお陰で最高にグロテスクかつおどろおどろしい漫画になっているのだが、
一巻の時点では、まだ彼が描きたい「神」の姿は全然見えてこず、語られる内容もシュレディンガーの猫の範疇を出ない。
いがらしさんはインタビューで、そういった「1」ではなく「0」を描きたい、
つまり量子物理でも既存の宗教でもない、それ以前のものを描いてみせると言っていたから、
まだ「1」について説明している段階なのだろう。
今後の彼の格闘の成果に心から期待したいところである。


そして彼が一巻で「説明」している通り、
すべての「目に見えるもの」は、「選択できるもの」であって、
そうした選択ができるのが人間であるのだけど、そうして選択されたものは決して命の意味などといった「目に見えないもの」を表すことができないし、それを求める人を満たすことはできない。
命の意味、生きている理由、そういうものを満たすものがあるとすれば、それは目に見えるところではなくて、目に見えないところにいつもあるんじゃないだろうか。


それはまさに、ハレの日ではなく、あまねく広がるケの時に溶け込み、寄り添っているものではないだろうか。


かつての「国」は「神」と文字通りの同義だった。
今でもそれが通用する道理はない。
しかし、人が「神」に求める「目に見えないもの」──そこにある命の意味を満たすこと、
それができるのが憲法に記された「国」ではなかったか。
それができない「国」とは、ただの市場でしかないのではないか。

その音楽家が演奏した45分間で、わずか6人が立ち止まってしばらくそこにいた。約20人がお金を彼にあげたが、ペースを緩めることなく歩き続けた。彼は32ドル集めた。彼が演奏を終えると、辺りは静かになったが、誰もそのことに気づかなかった。拍手する者はだれもいず、だれも気づかなかった。


誰も知らなかったが、そのバイオリニストは世界の最も優れた音楽家の一人であるジョシュア・ベルだった。彼はこれまで書かれたうちで最も難解とされる曲のひとつを演奏した。350万ドルの価値あるバイオリンで。


地下鉄で演奏する2日前に催されたジョシュア・ベルのボストンでのコンサートは売り切れていた。そのチケットは平均で100ドルだった。


これは本当の話だ。地下鉄駅でジョシュア・ベルがお忍びで演奏することを企画したのは、ワシントンポストで、これは人々の認知、テースト(嗜好)、優先順位についての社会実験のひとつだった。


その企画の概要はこうだった。
ありふれた環境で、都合の悪い時間に、
私たちは美を認知するか?
足を止めてそれを観賞するか?
予想できない状況でも才能を認知するか?


この経験から得られる結論のひとつはこうだろう。


世界最高と言われる音楽家のひとりが最高の作曲と言われる曲を演奏するのに、一瞬たりとも立ち止まって聴くことをしないのならば、私たちはどれほどのものを見過ごしているだろうか?


玄のリモ農園ダイアリー: 地下鉄のバイオリニスト より引用)


然るべき時に、然るべき用法でしか用いられないものに、
時を選ばず移ろい続ける魂の恒久的な平和を求めることは難しい。
菊の御紋や、青のユニフォームの向こうに刹那的な共感は得られても、それは「国」ではないはずだ。
だが、「国」が本当はどこにあるのかは、俺にはわからない。
だからせめて英霊に問うたのだ。
「国」とは何か、と。
「国」とはど,の,よ,う,な,感,じ,な,の,か、と。