PIMPIN’/ロックの日によせて

スラング英語.com : 【pimp】スラング英語の意味
http://www.slangeigo.com/archives/21248005.html

もともとは、売春の斡旋業者のことを指す言葉です。HIPHOPスラングでは、最高にクールなとか、クールに(改良)するという意味でも使います。"pimpin" "pinming'"などのバラエティーがあります。ちなみに、MTVの人気番組に"Pimp my ride"っていうのがありましたよね。


2000年代はギークが“PIMP”を学ぶには最高の時代だった。


クレイジータクシーグランツーリスモCounter-StrikeギルティギアBLEACH等々、かろうじて残っていた「世代共通の文化」の中に、主にイギリスのパンクロックが紐付けされて、枠の限られたリア充の器から漏れた十代二十代はレキシコン・パンクスを知り、ドラえもんを呼びパラダイス・シティを自分のマトリックス世界のザイオンと夢見た。
オルタナティヴ・ロックの隆盛はギーク自身の人生の幕開けの象徴とされ、パンクロック・アイコンたちの居姿は、さながら正しく社会に反抗するための姿勢を学ぶギークにとっての隠された教科書だった。



世界中、日本からも数多くのプロゲーマーを輩出し、誰もが大会での活躍を目指して熱狂したCounter-Strike1.6コミュニティでは、世界中から自分や朋友のクールなプレイを見せつけるために作られたフラグムービーが投稿され、極限的な集中の中で、戦略と研鑽と瞬間的な判断が一つになった行動がいかに「音楽的」であるか、ということを知らしめた。


ギターを鳴らすだけの忍耐力や行動力のなかったギークは、代わりに録音された銃声で、タイヤの擦れる音で、空中コンボを繰り出すボタンの音で、自分だけの音楽を奏でようとした。もちろん、誰もが自分のことしか考えていなかった。いつだって考えていたのは自分の“オルタナティヴな”精神がいかにカッコよく伝えられるか、その一点だけだった。
もっとクールに、もっとハードに。各々のシーンに深く入れ込んだ者ほど、ただ闇雲に撃てばそれが伝わるものでないと知っていた。もっとリズムを知るべきだった。もっとハーモニーにこだわるべきだった。そうして自分のプレイを一つの文脈に仕立てていく――“PIMP”することで、誰にも目を向けられなかった自分の内面が世界に向かって啓かれるということを、ギークたちは学んだ。


彼らはストリートには立たなかったが、彼らはある意味で、誰よりもファッショナブルだった。
サブカル』『fanboy』『ゲーム脳』『宅八郎』『サカキバラ』などといった言葉が投げかけられた。だが一部のギークにとって、それは既に、日本に初めて来た外国人がゲイシャに見入ったり、勘違い漢字のTシャツを着て喜んでいるようなものだった。彼らはもう二度と“充実した”人生の舞台の上に立つことはできなかったが、地下に自分たちだけのフロアを作って楽しんでいた。



やがてインターネットコミュニティが社会のインフラの中に取り込まれると、
ライフログ』や『マイクロブログ』や『リング』だったはずのものは“SNS”と呼ばれ、ギークが地下に溜め込んできた精神は、「自由な交流」という名の風穴から間欠泉のように舞台の上に噴き上がり始めた。
それらは今や舞台を彩る大道具となって、ギークの一部、いやもしかしたら全部は、舞台職人としての顔も持つようになった。精神はマインドというコンテンツになり、通貨になって、ギークがこれまで手に入れることができなかったものが手に入れられるようになった。


今、ギークは充実している。
これまでにないほど認められ、受け入れられ、むしろ追いかけられている。
自分がただのエコノミック・アニマルであったことに気づき始めた者たちが、今はマインドを仕入れるためにこぞって彼らの下に集まっている。


だが、ギークよ、今一度考えて欲しい。ロックは“そう”だったか?
確かに昔も今も、「cool」や「sick」をかき集めたいという気持ちに変わりはない。
だがそれは、数字だったのか?
全国1位になることがcoolであることの証だったのか?評定5を取ることがsickであることの証だったのか?
もしそうなら、確かにシェアされるマインドこそが優れた精神になるだろう。そして人生の目的はよりシェアされる人間になることになるだろう。


だが再度形を変えて問おう、ロックは“それが始まり”だったか?
君らが後生大事に抱えてきた精神は、始めから広く人に配られるために生まれてきたのか?
だとしたら、ギークなんかにはなっていないはずだ。
精神は共有されないし、理解されない。だからこそ精神なのであり、だからこそ人は手を動かすのであり、せめて自分の音を奏でて感動を共有したいのだ。


オリジナルなライフスタイルを持ち、優れたマインドを確立し、自分をブランディングすることは必要だ。生きていくためにそれが必要な時代になりつつある。
しかしそれは、自分をどう伝えるかということであって、自分がどう合わせるかということではない。
“PIMP”とは、あくまで自分のバイクをどこまでカッコよく改造できるかであって、いかに多くの「coolと言われている」バイクをコレクションし、乗りこなせるかということではない。


それがロックの精神だと思う。


アンドレアス・グルスキー展、アメリカンポップアート展、カラーハンティング展に行ってきた



六本木の国立新美術館で行われているアンドレアス・グルスキー展アメリカンポップアート展
21_21 DESIGN SIGHTで行われているカラーハンティング展に行ってきた。


そもそもグルスキーに関してはTumblrで何度か見かけたり色々な機会にちょろっと写真を見かけた程度では正直あまり惹かれるものがなく期待しておらず、ともあれ現代アートだし、という感じで勢いで観に行った感があったのだが、
アメリカンポップアート展と併せて2800円の価値は十二分にあったなあという感じで、多分カタログの売れ行きも桁違いなんじゃないだろうか。あれは手元に欲しくなるぞ。


グルスキーの作品は、全てにおいてCtrl+C,X,Vが絡むデジタル加工画像であるという点においてほとんどCGに近い手法ではあるのだけど、「写真」という四角のフレームをあくまでも前提に置き、被写体とその影までもが基本的にその直線に合わせて配置され、平面の構図が厳格に守られていることで写真としての説得力を保っている。このフレームへのこだわりこそが、グルスキー作品の異常なまでの密度の濃さを担保している。


そしてその全てが、「気持ち悪い」
どの写真も基本的に超鳥瞰的な視点からなっているのだが、そこにぶちまけられている情報がことごとくフィルタレスのロウ・データといった風情で、本来独立して一つのフレームに収まっているべきものが無理やり大きな一つのフレームに押し込められ、上から秩序の封を押されているような、なんともいえない息苦しさを感じる。
それは北朝鮮マスゲームを一枚のフレームに収めた『ピョンヤン』シリーズにまさしく代表されており、その空ろな調和はLAの100均の棚を等間隔に配置した『99cent』で強調される。棚、そして天井からぶら下がる蛍光灯によって縛り付けられた空間の中に各自過剰なラッピングを施されて詰め込まれた商品たちの姿は、コンテンツのブタ箱と呼ぶのがふさわしい。
このギャップがもたらす不快感というのはなかなかのものだ。ざらついたような印象を目に受けるのは、この俯瞰で読み解くという構図のあり方が文法的にはアスキーアートのそれに重なるのだけど、材料を構成する一つ一つのパーツが精巧な一枚の写真として成立しているために、一度に届く情報量が人間が処理できるキャパシティを超えている(少なくとも処理に当たっての基礎となる常識的な感覚は軽々と超えていると言える)からなのだろう。
同展示のカタログ内にて、担当学芸員氏も俯瞰の視点と各オブジェクトの微細な描写の二つが同時に写真の視点として存在しているんだよー的なことを書かれていた。


心を奪われた作品は数多く、挙げればきりがないが、
ベトナムの椅子工場の内部を写した『ニャチャン』は、横に走る蛍光灯が画面を分断するなか、浮きまくりの蛍光オレンジの作業服を着た無数の作業員たちが寄ってたかって椅子を織り上げていく様子が詰め込まれており、そのパーツは太くてしなやかな植物の繊維の束で、近くで観ればそれは工場見学にも似たチームワークと手工業の精巧さを楽しむ一つのアミューズメントだが、引いてみるとそこには奇妙にのたうつ線虫の群れに警戒色を背負った無数の蟻のような生き物が群がる異常な光景が浮いてくる。
バンコクの川面を接写した『バンコク』シリーズは、初見では印象派の油絵にしか見えない茫洋とした光と色の斑点が、近づいて冷静に観察することで、ゴミと産業排水で脂ぎった川の表情である現実へと変わっていく様が面白い。
海洋を繋ぎ合わせ、濃紺の上に潮をあたかも顔の皺のように描き出した『オーシャン』が来訪者の人気を集める一方で、セブ島のゴミ山やフィリピンのスモーキー・ヴァレーのような無数のゴミをバラックの周りにかき集めゴミの海を作り出した『無題13』という写真も展示される。ビニールやペットボトルキャップなどで埋め尽くされたゴミの海の表面は、遠目に観れば雪原のようにも見える。
パリ・モンパルナスの四角いアパルトマンを端から端まで繋ぎ、窓にかけられた様々なチープな色のカーテンでモザイクを描いた『パリ、モンパルナス』は特に衝撃的な作品で、画一的な四角の連続が薄ら寒い白みがかった空を頂く様子は、まるで外界で生きていくことのできない人間が一つの大きな繭の中にコロニーを形成しつつも、己が生命のありかを主張せずにはいられない様子を描いたかのようで、とてもSF的だ。


こうした文脈があった上で活きてくるのが、件の3億円写真の『ライン川2』だろう。
ジョギングコースから建物を切り取り、純粋に川と緑だけが視線に並行するシンプルな情景、
そこには他のグルスキー作品のどれにもない、ただ一つの動線が一貫して走り抜けていく、
生命のあり方そのもの――循環を表すかのようなミニマルの極致。突き抜ける開放感に投げ出され、
グルスキーの物語はハッピーエンドを迎えるわけだ。


意図的な情報の飽和を用いたグルスキー作品は、写真としてのこだわりに敢えて固執することで、逆説的に写真の限界点を示し、同時に現代社会における「一つの視点」が持つ限界をも見事に示してみせている。行き過ぎた公平さが、よく言えば宇宙的、悪く言えばグロテスクな情景を生み出す。偏重のない世界というのが人の手に余るのは、人の価値観が帰属意識に基づくものだからだ。グルスキー作品はそうした人の限界を抽象の世界で追求した現代アートの傑作だ。



上手いなと思ったのがこの展示の上にロイ・リキテンスタインアンディ・ウォーホルを担ぎ出した新美のやり口で、
展示の顔に冒頭の画像にあるウォーホル『200個のキャンベル・スープ缶』を持ってくることで、グルスキーの『99cent』との比較ができるようにしてある。こちらの展示もまた実に見事で、60年代以降のアメリカンポップアートが一挙におさらいできるという豪華な構成。
ナマでウォーホルの『マリリン』を観ることもできる素晴らしい展示だった。
他にもロバート・ラウシェンバーグがバラバラにした段ボールそっくりに鋳造した鋼板に彩色を施して元の段ボールに見せかけた「イデアの代入」とでも言うべき『カードバード』や、ポップカルチャーの視覚的雛形と言っていい巨大なパレットを描いたジム・ダインの『ロング・アイランドのスタジオ』などが目を惹いたが、個人的に最も印象深かったのはウォーホルが電気椅子をモンローと同じモチーフに起用していたということ。
『マリリン』の彩色が人の顔から表情を消し記号化するためのフィルターであるのに対し、同じアプローチであるはずの『電気椅子』は、明らかに色が主体となっていて、暴虐的な色の乱舞が、まるで電気椅子で高圧電流を食らった時の死刑囚の視点のような恐ろしい印象を与える。
それ自体がポップの象徴として語られる『マリリン』が、実はそういう虚無を見つめる視点から作られたものであったことに気づかされたことは、今日の二番目の衝撃だった。


画一性の中の虚無感というのがわかりやすく存在しているのがアメリカのモダンアート。
だが、グルスキーと同じ俯瞰視点を構図に用いた『200個のキャンベル・スープ缶』には、グルスキー作品にあるような猥雑さは存在しない。
そしてグルスキー『99cent』には、本来あるはずの虚無感が見えない。
物量によって秩序を構築しようとした大戦後のアメリカ文化、それをさらに先鋭化させ、世界をコンテンツで埋め尽くすことによって、ついに一分の虚無感の漏れも出さぬようにした現代社会の姿。両輪揃って初めて見えてきた病巣だ。アートとしての本懐を遂げた素晴らしい仕掛けだった。



色を道具として使い倒した新美の展示の後に観るデザイナー向けの色の実験展示、カラーハンティング展も良かった。
色もまた音等と同じ波形の一つであるという認識に基づいて、色を音化したり、言葉を色化したりといった属性の変換・代入は行えるか?という実験が行われている面白い展示だ。
特に面白かったのが、アフリカ・マサイ族居住地の土の色を再現したテーブルの上に、ライオンの色を移したシューズをモーターカーに載せて自由に走らせるインスタレーション。前述のラウシェンバーグの『カードバード』を髣髴とさせる、イデアの代入がここでも行われている。たとえ自然の表情であっても、記号化できればその本質は手元で再現可能だ、とでも言わんばかりの光景は、まさに現代人の意思が透けて見えるようで、薄ら寒くも面白い。



戦中・戦後に大衆に押し付けられた全体主義が、大戦のために行われた情報工作の一環なのだとしたら、
現代はその負の遺産の成果に埋め尽くされ、自然発生した摩擦熱で煙が絶えず上がるスモーキー・ヴァレーそのものだ。
荒れ狂う情報の波に適応していく、つまりメディア・リテラシーを身に着けるだけでは、この危機を乗り越えることはできない。
情報の山を選り分けて、炎上の種を見つけ、交渉によってそれを取り除いていくという慎重な作業が、
すべての現代人に求められる技能に違いない。
六本木の優れた展示会はそういうメッセージを発しているように自分には思えた。

サムライチャンプルー(&カウボーイビバップ)を観終わった

微ネタバレ。


感無量。


まさか自分でもここまで思い入れがあるとは思わなかった、というのが、
エンディングを観ての第一印象。
この圧倒的な旅情感、余韻。
サムライチャンプルーを観終わる前にカウボーイビバップを観終わっていて良かったと思うのは、
チャンプルーがビバップとは正反対の正の余韻を残していたところだ。


どちらも流浪人同士が緩やかにつるむという形を取りながら、
反対の結末を辿ったのは何故なのか。
言い換えれば、なぜスパイクはムゲンやジンが至った境地に至れなかったのか。
結局空気が読めすぎたのが原因だったような気がする。


スパイクは過去に生きていながら、過去を現在に活かそうとは決してしなかった。
それはムゲンやジンも同じだが、二人はフウとの旅という時間を経て、
力を人のために使うということについて学び、
力が生むエネルギーが鬱屈した形としての憎しみや恐れという感情を
別の形で発散しうるということを習得することができた。


しかし、ビバップ号の関係性では同じ旅をしていてもそれは不可能だった。
ビバップの面々は初めから擬似家族としてのコミュニティを求めていて、
滞留し続けることを目的としていたからだ。
それがフェイにとってのセーフティネットにもなったわけだが、
終盤の悶着からの終わり方は、まさしく全員が肥大したエゴを持て余し、
暴走した果ての爆発と言って良かった。
それは同時に、これまで狩ってきた賞金首が、彼らにとってはただの仮想敵でしかなかった、
ということを意味している。まさに酔生夢死を地で行く展開だ。


サムライチャンプルーにおける「敵の(斬られ役にしては異常な)強さ」は、
単に作品全体のバランスの問題だけでなく、ムゲンとジンが
己がエゴを世界に叩き付けた結果だと思えば、妙に納得がいく。


キャラクターやストーリーが脳裏に克明に刻まれる作品というのはそうそうないが、
渡辺信一郎作品は徹底した感情の映像化でもってそれを達成している。
優れた絵画が遠大な歴史のパノラマ写真だとすれば、
この2つはさながら未来と過去に置き去られた8ミリビデオカメラだ。
キャラクターの前にまず世界があり、出来事に対してのリアクションでキャラクターを表現する、
そしてその感情の移ろいをもってストーリーとする、
そういう物語創りの基本がこの上なくしっかりと押さえられていて、
そこには観る側への信頼も感じられた。
すなわち、人一人の人生は小話にはまとまらないということ、
それを理解してもらった上で、キャラクターに観る側が「付き合う」ことを前提とした、
空気への徹底した作りこみである。
そこには手軽なわかりやすさは無く、即効性のカタルシスは存在しないため、
必ず一定のついてこれない層を生むが、
「この風景がわかればいつかわかってくれるだろう」という優しい視線、であると共に真摯な祈りが、
渾身のイメージシーンに込められている。


いずれにしても、真の自由とは何か、ということを問い、
自分を肯定するとはどういうことか、という問いに答え、
全てのキャラクターを活かしきったこの作品たちを、
俺は絶対に忘れることができないだろう。

カウボーイビバップ&サムライチャンプルー 渡辺信一郎作品の美学


少し前からカウボーイビバップサムライチャンプルーの両方を観続けている。
どちらも渡辺信一郎監督作品で、原作なしのオリジナル。さらに監督本人の音楽への強いこだわりから、ヒップホップ、ハウス、オペラ、カントリーなどをBGMに積極起用する変わった音遣いがなんとも洒脱で観ていて小気味いいアニメだ。
シナリオは奇をてらわないが、歌をまるまる1個入れて回想シーンを長回しする度胸といい、一つの映像として丁寧に造ることにかなりの熱意を感じるのも良い。


しかし、渡辺信一郎作品の本当の良さは、いわゆるシブさ……叶わない夢を知り、あるいはあらかじめ知っていて、それを追いかけた果てにヘマをしてもそれ自体を洒落にしてその滑稽さを笑う、図太くも慎ましやかな笑いにある。
こういう笑いの楽しさにハマるようになってはついにオッサン化してきたかも知れんと思いつつ、その作風の根底に流れる人間という存在や運命という不条理への寛容な受容の精神は、何にも換え難い価値に見える。


この作品を観ていると、『カイジ』や『アカギ』の福本伸行の言葉が頭をよぎる。


『言葉の覇者』  赤木しげる、福本伸行、無念を愛する

【7回忌】赤木しげる名言集: カイジブログ

(Q.作品の中で一番好きな言葉は)
福本「赤木しげるが無念を愛す、と言って死んでいくんですが、そんなふうに言えたらいいな。
無念が願いを光らせる。惨めだったりつらかったり、無念を感じることはみんなも僕にもあるけど、
それはまったくだめなことじゃない。
恋愛だろうが仕事だろうが、甲子園にギリギリ出場できなくて無念で泣いた経験は、
もしかしたら光り輝くダイヤモンドかもしれない。
理想には手が届かなかったけれど、そんな無念に感じることがすごいし、
無念を愛することが大事かなと思いますね」

しかたないのさ… これも…!
無念であることが そのまま「生の証」だ…!
思うようにいかねぇことばかりじゃねぇか… 
生きるって事は… 不本意の連続…
時には全く理不尽な… ひどい仕打ちだってある…!

けどよ… たぶん… それでいいんだな…
無念が「願い」を光らせる…!
嫌いじゃなかった… 何か「願い」を持つこと… 
そして… 同時に 今ある現実と合意すること…!
不本意と仲良くすること…

そんな生き方が 好きだった…

たぶん… 

愛していた… 無念を…!

だから… いいんだこれで…!


所謂ミドルエイジの美学というのは、諦めの作法を身に付けるということだろう。
惨めに諦めるのではなく、あくまで自己流に諦める、
次を生む諦め、次に繋げるための諦めだ。
真に辿り着きたい目標を得たために、時には敢えて可能性を潰すことも必要と覚悟する。
それは醜い豚の言い訳じみた事後申告としての“訓戒”とは、形は似ていてもその意を全く異にする。


“無限の可能性”の夢の中から抜け出して、彫刻を彫るように可能性を一つずつ潰していく。
その過程の中に一筋の煌きがあり、人らしい味わいのある美が見える気がする。


物語の主人公は若く未成熟なほど面白いという一種の定石がある。
それは主人公の成長がそのまま一つのシナリオの中の仕掛けとして機能するからだが、
物語が語るべき真の面白さは、当然その若さそのものにあるわけではない。
若い時代が輝かしく見えるのは活気に満ち溢れているからだが、
若さ=活気ではない。


若さの本質は盲目にある。
だが活気、つまり人らしい生命力の源泉とは、恐れずに傷を負うことにあったはずだ。
そしてその過程を楽しむための良き作法をこそ本物のお洒落という。
渡辺信一郎作品は無頼のカッコ良さを売りにしているが、
その無頼の強さを単に己の正義への愚直な忠信ではなく、
無頼であることによって無数に直面する“無念”との付き合い方の上手さで表現するところに、
他のヒーロー物とは一線を画すハードボイルドな洒脱感を感じる。
業と戦う術こそ美学と監督自身がきちんと分かっているからだろう。


ファンタジーという体裁を取り、その設定にも細部までこだわっておきながら、
人の業と真正面から闘いを挑む姿勢に震える。
この先にどういう結論を導き出すのか、とても楽しみだ。


さあ… 漕ぎ出そう…!
いわゆる「まとも」から放たれた人生に…!
無論… 気持ちは分かる…!
誰だって成功したい…!
分かりやすい意味での成功… 世間的な成功…!
金や 地位や 名声… 権力 称賛……
そういうものに憧れる… 欲する…!

けどよ…

ちょっと顧みれば分かる…!
それは「人生そのもの」じゃない…!
そういうものは全部… 飾り…!
人生の飾りに過ぎない…!

ただ… やる事… 
その熱… 行為そのものが… 生きるって言うこと…!
実ってヤツだ…!

分かるか…?成功を目指すな…と言ってるんじゃない…!
その成否に囚われ… 思い煩い…
止まってしまうこと… 熱を失ってしまうこと…
これがまずい…! こっちの方が問題だ…!



いいじゃないか…! 三流で…!

熱い三流なら 上等よ…!
まるで構わない…! 構わない話だ…!

だから… 恐れるなっ…!

繰り返す…! 失敗を恐れるなっ…!

最近わかってきたこと


なんだか眠れないので最近悶々と考えたことを書く。


■魅力的な人間について

容姿を問わず人を惹きつける『いい男/女』の特徴は、
いわゆる“色気”があることだが、
この“色気”というのは、要するにその人が蓄積して顔から醸し出す『生活臭』だと思う。
良い『生活臭』を持っている人は、以下の二つの力をバランスよく鍛えている人だ。



1.生活力
 実務処理能力。部屋を綺麗に保つ、食事をバランスよく採る、など、
 自分の生活における責任を果たす能力。
2.趣味力
 個人の好きなものを追う情熱と自由な行動力。
 『好き』という気持ちを実体のあるものに変える能力。



では、具体的にどのような目標を設定すればこの両輪を鍛えられるのか。
その目安として三つの資本力が挙げられる。



1.経済資本
 カネ。貯蓄。それを稼ぎ出す力。
 世の中で最も追求されている能力。
2.社会資本
 人脈。それを造るための礼儀作法、心のしなやかさ。
 コミュニケーション能力と言ってもいい。
3.文化資本
 教養。ジャンルを問わず一定の知識があり、
 また多様な種類の感動の経験を蓄積していること。



上二つは生活力に含まれる要素で、
下二つは趣味力に含まれる要素。
社会資本が基礎として大切と言われているのは、両方に絡む要素だからだと思う。


■誤ることについて

「疑わない」という怠惰について - 24時間残念営業を読んでのメモ。


  • 『弱肉強食』は社会として絶対的に正しい。

 ……倫理的に間違いだという感情は分けて考えないといけない。
 自然界に生きている以上、このルールには基本的に全員乗せられていると考えるべき。

  • 正論は強者の発想であるが故に強い。

 ……権力のある者が振りかざす正論に勝てる論理は存在しない。
 逆に言うと、世間に広く行き渡っている『正しさ』は、
 基本的に『弱肉強食』に基づく発想だ。

  • 人間は人性と人生を守るために上記の『正しさ』を否定できなければならない。

 ……知性や感性は、『弱肉強食』という個性を踏みにじる思想に対抗するために磨かれなくてはならない。
 大いに間違い、否定され、孤独を味わいながらも、
 人が人として生き抜くためには、絶対的な正しさには背を向けなくてはならない。
 もちろん獲得ゲームには参加しなければならないが、
 それは体力に頼らない新たな価値を創出することによって行われるべきだ。




がんばりましょう。

『笑えよ』工藤水生(2012)メディアファクトリー


 Amazon.co.jp: 笑えよ (ダ・ヴィンチブックス): 工藤水生, 渡辺ペコ: 本

 第6回ダ・ヴィンチ文学賞大賞の青春小説。
 ゲイの少年と、あるトラウマによってAセクシュアル(無性愛)状態になった少年と、
 恋という感情そのものに触れたことすらない少女が、受験をゆるやかなきっかけにして互いに一方通行の好意を含んだ友人関係を築いていく物語である。


 足りないものを補いたい気持ちも、マイノリティであることへの共感も、はっきりとした非日常への興味も、
 それぞれが完全に違う感情で、そしてまたどれもが「個人への好意」から外れているけれど、互いが関係を崩さずに緩やかにそのことに気づけたことによって、ラストの締まりのいい一言に着地できたのだろうな、と思った。


 セクシュアルマイノリティに対して未だ平然と差別的な表現が市民権を平然と取得していく趨勢で、このような作品が支持を受けることについて個人的にかなり不可解な感じを受けたので色々と検索して感想を覗いてみたのだが、


<読者審査員の選評より>
●「ただのラブストーリーではなく、それを越えた3人の家族のような愛情が羨ましくなった。」(京都府・20歳)


●「皆、何かしらの悩みを抱えているけれど、その悩みも含めて自分であり、悩むことは悪いことでもなく恥じるべきことでもないと勇気づけられた。」(神奈川県・20歳)


●「本当に、あのころの私に言いたい。恥ずかしがったりかっこつけたりしないで全部やってしまえよ!!って。」(静岡県・23歳)



 (中略)「恋愛に苦手意識を持っている」「恋愛において受け身」な女性の増加要因は、長引く不況やネットコミュニケーションの発展に関係しているという見方もあるが、彼女たちは、異性との関係においても生々しい感情を伴う恋愛関係ではなく、悩みや苦しみを自然に共有でき、お互いを大切に思える家族のような関係にシンパシーを感じるのかもしれない。


 20代女子の約4割が自らを?草食系?と回答(ダ・ヴィンチ) - エキサイトニュース

 ……とあり、要するにこれまでの時代で地域や家庭が担っていた「壁越しの連帯感」が描かれたのがウケたのかな、という感じがする。
 確かにそれはこの小説の中で、とても自然に形成された心地よい関係性だった。
 しかし、それはどう考えても恋愛ではないし、もっと言うと相互理解ですらない(その対極と言ってもいい)のだが、このように明確に断絶した条件同士、つまりどう頑張っても「過ち」が起こりようがない相手とでなければ「理解」のための一歩を踏み出すことができないような、そんなドライな在り方が評価を呼んだのであれば、それはかなり寂しいことであるなあと思う。


 いやむしろ、そうした断絶が存在することが逆にそうした「安心」を呼び込むきっかけになっているのだとしたら、それを求める人々が呼ぶ“家族のような愛情”は、次の瞬間にも打ち砕かれるような脆いものになってしまうだろう。


 草食肉食以前に、それは愛情ではない。

2011年、というより震災後の総括的ななにか。

震災からこっち、日記を書く気にもならんので長らく放置していた。
というか今更blogにまとめて書きたい何かがないというのもある。
実際それが一番の問題であり、論題でもある。


朝日新聞の成人の日の社説に引用される社会学者の古市憲寿氏の言によれば、

20代の7割が現在の生活に満足している、との調査結果を紹介している。過去40年で最高だ。

 将来の希望が見えないなか、未来を探すより、親しい仲間と「いま、ここ」の身近な幸せをかみしめる。そんな価値観が広まっているという。


とのことで、まあ確かにその通りだと思った。
段階的に強化された島宇宙は、コミュニティの内部に自治機能をもち、漠とした社会に頼ることなく、自前でほとんどの欲求を満たすことができるようになった。
しかしそれも、生活の基盤が揺るがないことを前提としたものに過ぎない。
細分化したコミュニティは、構成員同士が強く引き合ったからというよりは、他のコミュニティとあまりにも相容れなかったがために形成されたのであって、八百万のクラスタの中に能動的な互助機能を持ったものがどれだけあるかは、実際のところかなり疑わしいもの……


それを明らかにしたのが3.11だった。
文壇に震撼が走ったのと同時に、あらゆるコミュニティがその意味を消失した。
いや、意味など始めからなかったのだろうが、とにもかくにも、暗黙のうちに共有されていたルールを失い、それぞれのコミュニティはそれぞれのファッション性を身につけて、その中身の無さを隠さなければならなくなった。
曰く、こんな時だからこそ我々にできることをしよう、曰く、悲劇に引きずられず楽しむべきは楽しむのが道理だ……
どれだけの人間がそれを自覚しているのかはわからないが、少なくとも、空虚さを自覚してなお現状を維持することにある種の必死さを醸し出すようになった人間は確実に増えた。


こうした状況を導いた、暗黙のうちに共有されていたルール。
それは、思うに「日本は技術立国である」という信仰だったと思う。
その宗教が崩壊した今、我々はついに本当の意味で羅針盤を失ってしまった。
各自が各自の逃げ込めるところに全力で撤退している。


考えてみれば当たり前のことだ。
生きられる者は生きられるし、死ぬ者は死ぬ。
言葉にしてみれば当たり前に過ぎることなのに、どうしてこうも耐え難いのだろう?
きっと、平和とはさまざまな「意味」を飽和させた状態のことで、平和に慣れきった我々は、とっくに意味無しでは生きていけなくなっていたのだ。
そして、きっと日本の技術が、それに支えられた社会が意味を与えてくれると信じていた。
日々自分に補充する意味がたとえ借り物だと気付いていたとしても、いざとなれば「日本」というアイコンに逃げ込んで群れることで、虚無感を忘れることができた。


どれももうどこにもない。
だから皆が皆、余韻を大切にする。
大船が沈みゆく中、救命ボートにしがみつくように。
もちろんその中にも、沈むものもあれば沈まないものもある。
あの日から頻繁に、無駄に捧げられるようになった「祈り」とは、
せめて自分の乗るボートが沈みませんように、という祈りなのだろう。


俺は、ことここに至って文学や宗教、音楽といった文化の役目は、
あの震災に何らかの意味をつけ、歴史に回収することにあると考え続けてきた。
だが、それはどうも間違っているらしい。
そもそも、生きていることそのものに意味がないと考える前提の認識の時点で間違っていた。
意味でデコレートすることに慣れてしまったがために、「ただ生きていること」ということの価値を、
スローライフ」のようなファッション性のあるライフスタイルの一つとして、相対的に見ることしかできなくなっていたのだ。


「ただ生きていること」そのものの価値について、我々はあまりにも冷笑的になりすぎてきた。
社会的に承認を得られる生にしか、我々は興味を持てなくなってしまっていた。
その結果、生きることの価値の絶対性というものを知らずに成長してしまった。
これから何かやるのだとすれば、それを知らなくてはならない。
それも相対性の波を乗り越えてたどり着かなくてはいけない。
なぜならば、ただ真理を明らかにしたところで、それはいとも簡単に「スローライフ」の中に回収されてしまうからだ。
我々はあくまで、これまで蓄積した相対的な情報と価値観を駆使して、
我々がただ存在していることについて絶対的な価値を証明しなければならない。
日々をごまかして生き延びることができないほど追い詰められた者ならば、尚更そうだ。
ごまかして生きる者の全てをなんとなく生かしてくれる社会とパラダイムはもう死んだのだから。