選択されるもの、選択の前にあるもの

終戦記念日だー、ということで仕事上がりに靖国神社へ行ってきた。
そこには元旦とそう変わらない光景が広がっていて、違いといえば時間帯からかその筋の人が少なかったことぐらいだろうかw
とはいえ本殿の前はさすがにそんなのお構い無しに混みまくっていて、
参拝までは長い時間を取られた割に、後ろに人がつかえている分お祈りの時間自体は挨拶程度のものにしなければならなかった(だから人のいる神社って厭だ)。


んで、こういうことを書くとすぐにそういうことに疎い人には所謂「そういう系」の人なんだ、という印象を持たれるのが、トレンチコートを着たら露出狂だと言われた、というような感じで困るけど、当然俺は露出狂じゃないし、それと同様にただ御紋の下に集うことに意義を見出すような人間でもない。


そもそも、自分のような戦争どころか戦後すらも肌で感じていない世代が、英霊を悼むことができるだろうか。
むせ返るような土くれの匂いと、そこにべったりと塗りつけられた血糊と臓物と皮脂糞尿髪の毛の匂いと、それをすら押し切らんとするように捻じ込まれる火薬や金属の匂いを知らず、それを発する「もと」について何かを参照することでかろうじて知ることができる程度の者が、戦争の是非を語ることができるだろうか。
そのような者が戦争を非とする時、その理由として自分が痛い目を見たくないから、というごく卑近な動機以外に何を添えられるのだろうか。
俺は、そういう者が英霊を「悼む」という行為そのものが、無礼なんじゃないかと思ったりしている。わからんものはわからんのである。
まぁ、わからんなりに今の平和を導いてくれてありがとう、と感謝したりすることもできるのかもしれないけど、生憎俺の生活は全然平和じゃないので、それも選択肢にない。


だから、何をしにいったのかといえば、問いに行ったのだ。
運命に命喰われた貴方達よ、貴方達の見た「平和」という夢とはどのようなものだったのか、と。
貴方達が守ろうとした「国」とはどのようなものだったのか、と。


今でも、今日のように然るべき時に然るべき場所へ行けば、「日本人たらんとする日本人」に出会うことができる。
あるいはそれは日本という「国」そのものかもしれない。
だがそれは、ハレの日に覗く一瞬の煌きのようなもので、ケの日々に見出せるものではない。


「日本人は祭り好きだ」と誇らしげに語られる時がある。
しかし、いつの頃からか、「日本人だから祭り好き」というよりは、「祭りの時に日本人であることを思い出す」というような状態になっている。
ハレの日に日本を感じれば感じるほど、日頃大いに揺らぎ霞む国家観とのギャップの中に、この国において既に「国」の実体は遺産に過ぎず、あるいは儚い泡沫のような祭りが、イベントたちが「国」と呼ばれているのではないか……というような思いが浮かぶ。




“見だらそうなる”

ぼのぼの』のいがらしみきおさんの単行本の新刊『I【アイ】』を書店で見かけて、


「幼い頃からずっと考えてきた、生と死のこと。命の意味。その先にある“答え”を、今なら描ける気がする」


といういがらしさんの言と、彼自身が現在進行形の被災者であり、この作品が連載中のものであることに惹かれて購入した。
もともと哲学的な論題に対してホラーちっくな手続きでアプローチしようとする人だったのが形振り構わず書いてるお陰で最高にグロテスクかつおどろおどろしい漫画になっているのだが、
一巻の時点では、まだ彼が描きたい「神」の姿は全然見えてこず、語られる内容もシュレディンガーの猫の範疇を出ない。
いがらしさんはインタビューで、そういった「1」ではなく「0」を描きたい、
つまり量子物理でも既存の宗教でもない、それ以前のものを描いてみせると言っていたから、
まだ「1」について説明している段階なのだろう。
今後の彼の格闘の成果に心から期待したいところである。


そして彼が一巻で「説明」している通り、
すべての「目に見えるもの」は、「選択できるもの」であって、
そうした選択ができるのが人間であるのだけど、そうして選択されたものは決して命の意味などといった「目に見えないもの」を表すことができないし、それを求める人を満たすことはできない。
命の意味、生きている理由、そういうものを満たすものがあるとすれば、それは目に見えるところではなくて、目に見えないところにいつもあるんじゃないだろうか。


それはまさに、ハレの日ではなく、あまねく広がるケの時に溶け込み、寄り添っているものではないだろうか。


かつての「国」は「神」と文字通りの同義だった。
今でもそれが通用する道理はない。
しかし、人が「神」に求める「目に見えないもの」──そこにある命の意味を満たすこと、
それができるのが憲法に記された「国」ではなかったか。
それができない「国」とは、ただの市場でしかないのではないか。

その音楽家が演奏した45分間で、わずか6人が立ち止まってしばらくそこにいた。約20人がお金を彼にあげたが、ペースを緩めることなく歩き続けた。彼は32ドル集めた。彼が演奏を終えると、辺りは静かになったが、誰もそのことに気づかなかった。拍手する者はだれもいず、だれも気づかなかった。


誰も知らなかったが、そのバイオリニストは世界の最も優れた音楽家の一人であるジョシュア・ベルだった。彼はこれまで書かれたうちで最も難解とされる曲のひとつを演奏した。350万ドルの価値あるバイオリンで。


地下鉄で演奏する2日前に催されたジョシュア・ベルのボストンでのコンサートは売り切れていた。そのチケットは平均で100ドルだった。


これは本当の話だ。地下鉄駅でジョシュア・ベルがお忍びで演奏することを企画したのは、ワシントンポストで、これは人々の認知、テースト(嗜好)、優先順位についての社会実験のひとつだった。


その企画の概要はこうだった。
ありふれた環境で、都合の悪い時間に、
私たちは美を認知するか?
足を止めてそれを観賞するか?
予想できない状況でも才能を認知するか?


この経験から得られる結論のひとつはこうだろう。


世界最高と言われる音楽家のひとりが最高の作曲と言われる曲を演奏するのに、一瞬たりとも立ち止まって聴くことをしないのならば、私たちはどれほどのものを見過ごしているだろうか?


玄のリモ農園ダイアリー: 地下鉄のバイオリニスト より引用)


然るべき時に、然るべき用法でしか用いられないものに、
時を選ばず移ろい続ける魂の恒久的な平和を求めることは難しい。
菊の御紋や、青のユニフォームの向こうに刹那的な共感は得られても、それは「国」ではないはずだ。
だが、「国」が本当はどこにあるのかは、俺にはわからない。
だからせめて英霊に問うたのだ。
「国」とは何か、と。
「国」とはど,の,よ,う,な,感,じ,な,の,か、と。

今回の戦利品一覧【第十二回文学フリマ】

とるものもとりあえず、
というか感想書こうと思ったけどこの一覧作っただけで2時だし、体力切れてます。また後日うううう!

すべての素晴らしい創り手の皆さんとの出会いに感謝!
本当にありがとうございます。楽しませて頂きます!


(以下敬称略、順不同)

『たたかえっ!憲法9条ちゃん』 ライトノベル/ノンポリ天皇
『ぶっころせ!刑法39条ちゃん』 同上


ソ連とロシアと歌舞伎町』 小説/浮草堂
『心霊よろずや』 同上


『cafe-moca 1』 小説/本田モカ,cafe-moca
※ほか、ブックカバー2点


オリジナルブックマーク/伊織,八咫鴉


『Sister シスター』 小説/柳川麻衣,痛覚+Wilhelmina
『TV/CD トランスヴェスタイト/クロスドレッサー』 同上


『Chocolate Terrorist 特集:男の娘インタビュー』 合作誌/形而上学女郎館


『パフェから始まる恋』 小説/ラナクター,クーロンパンダ
『ラオコーンの瞳』 小説/御夜優,クーロンパンダ


『はたらくお姫さま 第1部』 小説/DA☆RK'n SITE
『嘘つきレジェン』 同上


『全家畜 五度目』 漫画・小説/平方二寸
『全家畜 七度目』 同上


『普通では考えられないことが起こるわけ』 絵本/野津あき
『くじらのキャンデー』 同上


『フィロソフィア 第三号 特集:家族 実体験としてのAC 離婚、精神的暴力』 評論/フィロソフィア


『この点に関する原審の判断は結論において正当である』 小説/小高まあな,人生は緑色(ジミ)


『GD# vol.39 「魔法少女まどか☆マギカ論集」』 評論/GameDeep
『GameDeep vol.19 プレイヤーであるということ』 同上


『ことば日本妖怪づくり 「ネトゲ」』 絵葉書/小谷地ぐんて,マイノリティ
『ことば日本妖怪づくり 「思案亭画婦(シャンティガフ)」』 同上


『×文学』 評論×文学/カケルブンガク制作委員会


『終わりのない物語』 小説/Claymore


筑波批評』 評論/筑波批評社


アニメルカ vol.4』 評論/アニメルカ製作委員会


『放課後 保健室号 特集:突破力』 評論/「放課後」編集部


『私の存在証明』 小説/義里カズ,絶望系青春同盟
『トラブラー・トラベラー』 小説/少色,絶望系青春同盟


『ペニスのシンデレラ』 小説/目玉
『氷結ストロングゼロと私』 同上


『PiT vol.2 特集:名大SF研の選ぶ、ゼロ年代ベストテン』 評論/名古屋大学SF研究会


スカイツリーreport 号外』 ルポ/スカイツリーToday


『同人作家のためのフォントの本 05』 評論/KKITT出版部


『マルグリット・アンヌ・レニエ』 戯曲/池田陽,新詩抄


『ノベトモ! vol.3』 小説誌/ノベトモ製作委員会


『南国の鳥』 小説/久地 加夜子,ふぇにどら!!


『きょうの世界』 小説/フロナロ


『ami.me』 散文・韻文集/ami.me


『ハロー、クリプ』 小説/志々真実子


『Who me's CAFE no.1』 ルポ/芙美


『六人の神と魔童の賽』 小説/あべとかとう


以上


どう見ても買いすぎです 本当にありがとうございました


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ものを書くということ


空虚な日々を送っている。


書きたいものを書こうにも何を書きたいのかわからず、いや厳密には書きたいものはいろいろと出てくるのだが、それはなにか他の名文のコピーであったり、衝動的な欲求を映写機に通しただけの断片的なシーンであったりして、そこに一本の筋が通らない。
その一方で、ただ生きるためにしなければならないことは山積していくし、誰も彼もが将来の見通しについて喧々諤々の大騒ぎをしている中、自分は電車に乗る金も無く、米と卵を食い、薄くなった手の皮の様子を見て過ごしている。


しかしながら、こうなってしまった理由はわかっている。
要するに、それは始めにいった様に、何を書いたものか──即ちどのように生きたものかわからなくなってしまったということなのだ。
ものを書くということは、元来自分が見たいものを見ようとするということであろう。
だが今は、自分に見たいものがないのだ。
現状に満足し切っているわけでは決してない。ないが、そのためになにをどうしようという気にもならない。
すべての欲望は幻想で、それを現実にするためには、いかな空想の物語にしろ、地道な事実の積み上げが必要になる。


面倒な仕事だ。


欲望は欲望、幻想は幻想として、なんの脈絡も無くそこにあっても良いじゃないか。
なぜあらゆるものが計画的でなければならないのだろう。
理想が、それが生まれた瞬間に現実になるような、そんな世界を、人はなぜ面白く感じないのか。
誰もが幸せになるのに理由を欲しがっている。自分もそうだ。
本当はそんなもの、いらないのに。


でも直に幸せになろうと考えた時に胸をよぎる違和感はなんだろう?
それは世間体だろうか、良心だろうか、それとも、
絶望だろうか。


「林檎が食べたい」と思った時に、
こころの中で林檎の木を育て、その実──金色でもいいし虹色でもいい──を齧る……
それは愚かなことだろうか。
惨めなことだろうか。
そういうことをする人は、他に林檎を食べる術がないからそうするのだろうか。
自分には、それが人の条理に反したものであるとは、どうも考えられないのである。


しかし、こういう考えに行き着いてしまうあたり、
自分というのは、つくづく人に合わせるのが苦手な人間なのだと思う。
自分は、100%人に流されるか、100%人を排除するか、そんな選択しかできない極端な人間なんだ。
だから多分、自分のような人間は、ものを創ることでしか、人とは交流できない。
なにか良いもの──自分がこころから良いと思えるものを創って、それを良いねと言ってもらうことでしか、
自分は、人とこころを交えることができないのだと考えている。


だから、もっぱら最近の自分にとって、ものを書くということは、
人を愛するということに似ていると思う。

「ココ・アヴァン・シャネル」(Coco avant Chanel)を観た

俺は、本当の意味ではファッションに興味が無い。


そのことに気付けたというのは、アパレル業界で実際に働いてみたことで得られた、最も大きな収穫の一つだったと思う。
ファッションは好きではあるのだ。現に今でもネットでは毎日一通りのファッションニュースはチェックしているし、自分のワードロープを意識した服選びとライフスタイルの選択は、働いていた当時から今まで続いている。


だが、俺にはどうしてもファッションの持つ「『自己を演出』する」という目的が受け入れきれない。
何故なら、俺にとって自己とは常に「後付け」のものではありえなかった。いつどこにいてもここで物事を観ている自分という存在は絶対的で、何かに染まることも、拡大することさえもないという確信が幼少の頃から備わっていた。それ故に、ファッションは他者に自分という存在=自己を説明するための言語の一つでしかなく、それ自体が自己を変化させたりするようなことは無いと信じていたのだ。


良いファッションによってより良い印象を人に持たれた、それは自分がより良い人間になったということではなく、あくまで今まで以上に「自己」を伝えるのに成功したということに過ぎないと思う。


彼女は、どうだろうか。


「“シャネルのファッション”と言われるのは好きじゃないわ。シャネルは何をさておき、1つのスタイル。ファッションはすたれても、スタイルは残るものよ」


映画『ココ・アヴァン・シャネル 』オフィシャルサイト

結論から言えば、『期待はずれ、故に名作』といったところ。
俺がこの映画に期待していたのは、世界で最も有名かつ長命なファッションブランドの母が、いかなる「技術」と「哲学」をもって頂点に上り詰めたのかということに関する『説明』だった。
だが、これはフランス映画の文脈のなせる業なのか、それともこれが女の考えるサクセスストーリーというものなのか、この映画で描かれていたのは、徹頭徹尾ガブリエル=“ココ”=シャネルという女性のまっさらな存在そのものだった。


自分の中の『女』を武器に力ある男達の目を引き、彼らの力を利用して広い社交の世界に『シャネル・スタイル』を主張することに全力を傾けた彼女の姿が淡々と描かれる構成。彼女のデザインのスキルがいかに優れていたか、ということを知るためには、ごくごく少ない生地を裁断するシーンから観る側が推し量らなければならない。
それより圧倒的に多いのは、シャネル自身の「顔」を映すシーンである。毅然と、というよりは憮然とといった表現の方が正しいかもしれないその真剣な面持ちの中、黒く大きな瞳を光らせて、静かに何かを観ているシャネルの「顔」。その前には、彼女自身の出世も、つまびらかに描かれた恋模様も、親の無い孤独な出自も、その全てが意味を失くす。そんな存在感が、そこにはあった。


実は自分が違和感を感じたのはここである。
ほぼ恋愛映画といって差し支えのない構成の中、こうまで単体の彼女が取り沙汰されるのは何故か。それはこの映画において、彼女の絶対性が揺るぎないものとして設定されている証拠である。しかし現実に彼女がしたことは何か。名を売るために有力貴族の妾になった。その取引相手の実業家と浮気をした。
ブノワ・ポールブールドの演じる貴族エティエンヌ・バルザンは彼女に豪奢な部屋を与え、膨大な金を与え、社交界というこの世の最上級の世界を観る機会を与えた。俺はこのバルザンという男の大きさに痺れた。
彼は始め、シャネルという存在を失うことをまるで恐れず、“いつでもここを去るがいい”と言い続けた。その癖、城内での彼女の居場所作りには常に気を払った。例えば、歯に衣着せぬ態度の彼女を「野生児」と称して社交界という甘美な夢における貴重なスパイスとして紹介したり、自分のものであるはずのシャネルに実業家ボーイ・カペルが恋をし始めたことを知れば、嫉妬などよりも先にまず彼女の扱いについて誠意ある忠告をした。あまつさえ、シャネルの『気分転換』のために、ボーイと2日間二人っきりの旅に出すことを許しさえしたのだ。
映画では夢幻の世界にあてられた挙句恋人を盗られる哀れな愚者としての印象付けが強いキャラクターだが、それはあくまでも彼の小さな一面を表しているに過ぎない。事実、彼の与えた豊かな環境と見えざる繊細な心配りが、そして実業家ボーイがそれに加えた刺激と葛藤が、シャネルという女性の真価を引き出し、才能を本物にする機会を与えたのだ。
にも関わらず、彼らはことあるごとに置き去りにされる。まるで彼らそのものが数ある「機会」のうちの一つでしかなかったかのように、である。


俺はここに、恋という感情を理性と分離して持つ男と、一つにして持つ女との決定的な価値観の断層を見出したのだろう。



物語が佳境に迫るにつれ、最後に彼女は手段としてのそれではない本物の恋をし、やがてそれを失う。史実によればその後も彼女は恋を重ねるのだが、この時彼女は初めて結婚──即ち愛を、正式に諦めたのだと思われる。
かくして恋をすら自らの『スタイル』の中に取り込んでしまったシャネル。
しかし、彼女は「今の自分を不幸だと思うか」という質問には、答えることができなかったのである。


果たして彼女は幸せであったか……。
男達が自ら抽出し彼女に捧げた彼らの最も純粋なる個性としての恋をすら、『自分のもの』に昇華し尽した彼女の人生は、果たして不幸ではなかったか……。


「顔」が映される最後のシーン、コレクションで成功した時のシャネルの表情は、最後の最後でふっと漏れ出すような笑顔に崩れた。
それは母性か、流れる時のなせる業か、それとも後悔の昇華した形か。
大いなる謎を余韻に残されたのは、それ自体が、この映画がシャネルに捧げる賛歌であることの証だったのかもしれない。


何はともあれ、恋とライフスタイル、そして男と女の関係性について、これほど象徴的な、ある意味風流なアプローチで考えさせられる作品にはこれまで出会わなかった。
シャネルの存在は確かに女性を勇気付けるだろう。しかし、俺にはどうしても、まだ乗り越えるべき山が一つ残っていたように思えるのである。



それは、なんだろうか。

2010年、駆け込み総括。

明日も普通にバイトとか信じらんない!

色々書きたいことがあったけど遊び呆けてたら時間が無いよ!

駆け込み総括!


■本厄


 ガ チ で 厄 年 で し た 



あと


厄は出遭うものじゃない




 自 分 が な る も の だ 



どこに逃げても隠れても無駄です
厄年チェックマジでちゃんとした方がいいよ……厄年の人はほんと頑張ってね……



ネガティブパターンで自分って色んな人に支えられて生きてるなーと気付かされることばかりの一年でした
いやでもほんと感謝です……全ての人に感謝です……
ほんと、とりあえず、お陰様で大晦日を迎えられました……


勤労学生的みなしご生活というかなりヘヴィな問題と渡り合いつつ、
一旦完全に自我が崩壊しましたが乗り越えました。
もう大丈夫です。心配&迷惑をかけた皆様本当に申し訳ない&ありがとうございました。
人づてに心配して頂いてるという話も色々聞きまして、
ほんと、そういった思いやりの煌きの積み重ねが奇跡のように続いたお陰で今日まで生きてこれたと思っています。ありがとうございます。


んじゃ今後どうすんの?って話なんだけど
多分人生最大級の逆境を乗り越えた上で、やっぱり自分を救うのは文学的思考なんだと。文字を書き考えることを繰り返すこと、文章を創り続けること、それこそがやはり自分の道だと再確認した次第で、


今後はもう何がどんな状況でも「物書き」をやろうと思い至りました。


もちろん法律の勉強等等生きるための勉強にもこれまで以上に力を注いでいくわけだけど、結局根本的には、そうした全てを吸収して、その上で自分の言葉にしていくところにこそ自分の個性があると実感しました。
……ので、まあもう、ムリのあることはしないです……
その代わり、来年中には一冊本を作ることを本気の目標にしていきたいと思ってます。いやー、既に殺人的スケジュールなのが確定してるのにどうだかって感じだけどね……


案は色々あるけど、とにかくテーマは「鏡」になるでしょう。



リアルな話はとりあえずそんなところで……



■2010所感


2010年という年がどういう年だったか、ということを考えたときに、やはり「第三の道行き」という言葉を抜かすわけにはいかないなと思った。



魔王「この我のものとなれ、勇者よ」勇者「断る!」まとめサイト



『思想地図β』について | 合同会社コンテクチュアズ


Togetter - 「作家高橋源一郎氏が東京都青少年健全育成条例改正に反対する理由」


 ゲームなどの凌辱表現について 女性に読んでおいて欲しい話 - カオスの縁 ――無節操日記

第三の道行き」とは、つまり、善でも悪でもない第三の道のこと。
善と悪の二つだけで物事を考えたり処理したりできる世界はもう終わってしまった。


日本は終わる。


もしかしたら、本当に理想的な日本へ生まれ変わる第一歩を踏み出すかもしれない。それか、もう本当に、国がなくなって日本人というアイデンティティは失われてしまうかもしれない。いずれにしても、今の日本は一旦終わるはずだ。
22歳以降の人生計画からクソした後のケツの処理まで色んなものに頼り続けてきた我々は一体どうすればいいのだろう。
「社会」というとても大きな、漠然とした、でもどこか自分の面倒を引き受けてくれそうな期待感のある存在がなくなった時、頼れるのは……多分、自分自身と、目に入った人たちだけだ。


できるだろうか?



難しいだろうな。本当に信じられる人間がどれだけいるだろうなんてことを、実はいつも考えている。失敗も多いだろうな。もれなく酷いことになるよ。やりたいことはあるか?わからないよな。だから何を聞けばいいかもわからない。



でもまあ、だから、


意地だよ。


矜持だよ。誇り。笑われてもさ。


考えるんだよ。教育実習で実習生として今高校生達の前に立ったとき、なんて自己紹介しようって考えてるんだ。
もう百個は展開を考えたけど、今なら、多分こんな話をするだろう。


「……皆さんは『子供』と『若者』と『大人』と『老人』の違いがわかりますか?


 実は、子供と、老人──この二つはそんなに違いません。肌の質ぐらいなもんですかね。
 彼らはね、『自分で考えない』し、『誰でもない』生き物なんです。思い当たる節はありませんか?ありますよね。俺もそうでした。


 じゃあ、若者と、大人は一体どんな生き物なんでしょう。


 若者は、子供にも、老人にもなりたくなくて、子供でも老人でもない道を苦しみながら探し続ける生き物です。


 大人は、子供を老人にしないように、若者にする手助けをしようと考える生き物です。


 君たちは大人を目指せと周りの『大人たち』から言われていますね。
 でも、そんなもの正直今の君たちにはわからないんだから、考えなくていいです。俺だってほんとはわからないですし。
 でもね、ただ、『若者』でありたいなら、『子供』でも『老人』でもありたくないのなら、苦しむことを諦めないで下さい。“好き”を『好き』と言えるために、あらゆる手段を尽くしてあがき続けて下さい。そして、“何か”を創って下さい。
 『若者』であることにも、『大人』になることにも、何も得はありません。幸福もありません。けど、“何か”を創れるのは『若者』だけだし、そんな『若者』を育てられるのは『大人』だけです。


 “何か”なんて漠然としたもの、いらないと思いましたか?
 なら、『子供』か『老人』でいた方がいいです。その方が幸せです。
 だが、それなら、きちんと左側に並んで、優先席に収まって、『若者』に道を開けろ。
 邪魔だから。


 俺はそういう世の中のとっても冷たくて厳しい事実を教えに来ました。
 こんな一段高いところからだらだらしゃべりたいことをしゃべったところで何かが変えられるなんて思っちゃいないけど、それでも、誇りを持ってここにいます。
 君たちにはありますか?なら、何かがきっと変わるはずです。


 さあ、考えましょう。奴隷の振りに飽きたんなら。
 これからたくさんの『武器』をばらまきますから、
 適当に拾っていって下さい。よろしく」



正義感とか。
客観性とか。
ルールとか。
モラルとか。
直感とか。



それは本当に人によって違うもので、誰かにとっては善のように見えるかもしれないし、誰かにとっては極悪のように見えるかもしれない。
でも……“僕達が思い描いてる幸せってそんなに違っちゃいない”


そこだけ、信じて。


そこだけ、信じて。あがければ「若者」だ。
俺はいつまでも若いままでいたいな、と思う。
そのためには、2011以降、自分をどんどんどんな環境でも生きていけるように鍛えていかなきゃならないと思う。
法律だってやるよー英語だってやるよー歌だってやるよー筋トレだってやるよー物書きだってやるよー鑑賞だってやるよー試合だってやるよー


だっていつもモタモタ歩いてるあいつみたいになりたくないから。
あなたはどうですか?
誇りは見つかりそうですか?
なら、何かがきっと変わるはずです。
来年もよろしく!

みなしごは文学フリマに海を観た【第十一回文学フリマ】

俺は最先端が好きだ。
最先端が最も『速い』からだ。
もっとも最先端は決して優れているわけではない。
しかし、優れたものになるためには、
一度最先端に立たなければならない。
何故か。


おそらくは、それこそが己の道を開く唯一一点の突破口だからだ。




いやー、twitterってのはつくづくすごいね。
つぶやく内容が浮かばないからやらない、とか、
つぶやくのが嫌だからやらない、とか、
別につぶやかなくてもいいんだよ、と思う。
twitterの本当に面白いところは、自分の興味のある分野の最もフレッシュで上質な情報がどんどん流れ込んでくることだ。
つぶやきとか金魚の糞やで。


そんなわけで開催前日に文学フリマなんてクソ面白そうな即売会の存在を知り、即刻仮病を発病してバイトをブッチぎって蒲田まで一人で行ってきた。こういうデカいイベントがある時ほど、東京に生まれたのを感謝する時はないな。


ざくっと説明するとコミケから文字畑を抜き取ったまんまの感じの同人誌即売会で、各アルファベット毎20サークルに小ホールにも100サークルぐらい詰めてるから、その規模推して知るべし。
五千円ぐらい使うかなーと思ったら甘かった、一万五千円だった……
飯の回数に当分の間ペナルティを食らうことになりそうです。


フリマでは小説、詩、批評、評論、写真、ルポ、一通り揃ってたので、一通り買ってきた。
意外だったのが、現代詩とクラブ関係の同人誌が思いのほか多かったこと。
色んなとこでMOGRAの文字を見る。あと、思った以上に詩って手軽にチャレンジされてるなー、とか。
思った以上にかわいい娘多いなー、とか。


早慶文芸部から極左フェミニストからそこらへんのおっさんまで色んな人が色んな本を出してて、
ざっと見た感じ、出すことを楽しんでる人と、きっちり装丁からプロデュースして採算取りに来てる人とに分かれてた。
でも全体的にガチで紙でオピニオン出して行ってて、すげぇな、ファンジン文化。


多分出展された作品の半分ぐらいに目を通したんだけど、
全体の印象を一言で表すなら「野放図」(石原的な意味じゃないよ)。
クオリティにこだわらないという意味じゃない。むしろクオリティの低いものをあまり見なかった。
それ以前に、自分の書くものを一つの文芸作品として自信を持って肯定しているような、そんな雰囲気を感じた。


それと、若い文芸家たちは皆ことのほか「今」を大切にしよく観察しているが、それによって観えてきたものを割とそのまま切り取っていて、そうすることにあまり躊躇いを感じていない。とても素直。


俺はそんな彼らの姿に、海外に目を向けた時とはまた違った『世界の深み』を感じた。
あれ、意外と日本いけるんじゃね?みたいな。


海外では、日本の何倍もの厚みのある差別と格差が存在し、夜中に裏道に入ると刺されて死ぬ。そんな場所で当たり前のようにサバイブしてる人々を見ると、単純にスケールの違いを感じる。奴らの方がデカい。拡い。単純に。そいつぁ、大したもんだ。


対して、俺が若き文壇に感じたのは、縦の大きさ……深さだった。
文芸は、優しい。
なんて優しい世界なのだろう。
あの場にいる彼らが醸し出していた圧倒的な自己肯定感。
文芸の冠を被るのは易しいことではないけれど、でも、


ひとたびそれを被れば、淋しい呟きも、儚い呻きも、全てが「文芸」になる。


作品となり、意見となり、個性となる。
なんて、優しい世界なのだろう。


俺は今日初めてダイノジ大谷が言ってる事の意味がわかった。


一生背負っていくものがあるとしたら、その答えなんぞいらないからネタにだけしたいなって思った。
芸人になって、なんとやさしい世界だと思ったとき、そう思ったからだ。
ここでは悲劇が喜劇に変わる。
なんてやさしい世界なのだろうか。
排泄物のように垂れ流せば誰かが見てくれたりする。
ネタにすれば楽しんでくれるものがいる。
賛否があって当然だ。
でも少なくともここにいていいんだといわれているあいだは垂れ流しつづけたい。

ダイノジ大谷の「不良芸人日記」: 再録 ・不良芸人日記


芸とは、文化とは、雅とは、
なんて、なんて優しいのだろう。


孤独はなく、依存もなく、
ただ暖かい海のように、文化は『ぼくたちがぼくたちであること』を受け入れてくれる。


彼は何故歌うのだろう。
彼女は何故描くのだろう。
彼は何故撮るのだろう。
彼女は何故踊るのだろう。


俺は何故書くのだろう。


俺達は、何故、『創る』のだろう。



それは、『海』を思い出すためだ。
一つだった時のことを。一つであることを。一つであり続けることを。



何度孤独に苛まれ、何度現実に押し潰されても、人が生きていけるとしたら、それが答えだ……今回のイベントで俺はそんな思いに至った。


きっとこれからも意識が昏く閉ざされる時が来るだろう。
寂しさからは永遠に解放されないんだろう。
だけど、その時、彼は歌うことで、彼女は描くことで、彼は撮ることで、彼女は踊ることで、そして俺は書くことで、生きる喜びを思い出すのだろう。


彼らのエネルギーに奮い立たされる以上に、深く深く癒された。
なんだ、いいんじゃん、これで、みたいな。


今日は、本当に行って良かったなぁ。
次回の初夏の開催時には正直出展したいと思っている。
心当たりのある人には一応これから声をかけてみたいとぼんやり考えてるんだけど、もしやってみたいなー、って人がいたら一緒にやってみませんか。


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『魔王「この我のものとなれ、勇者よ」勇者「断る!」(略称まおゆう)』の一次感想と、同作品を巡る議論に見るTwitterの現状を「そもそも」から、もそもそと。1

 
遅ればせながら、本ッ当に遅ればせながら、この作品の読後感想文を書いてみたいと思う。
とはいえ、サクッと書ける時期を逸してしまったので、
これが本質的な一次感想かと言われると、ちょっと違うねと言わざるを得ない。
 

魔王「この我のものとなれ、勇者よ」勇者「断る!」まとめサイト

 
 
云々かんぬん述べる前に、ある詩の一部分を引用しておきたい。
 
 
 

とても好きなものは
詩にできない
そのものが言葉よりも近いから
そういう時は詩なんかいらない
詩にできるのは
あるときとても好きだったもの
あるとき
というところが肝心
あるじてんでいしきからとおくへほうりなげられ
そんなものはもうどうなったってかまわないと思う
その「どうなったって」が詩になる

(『初心者のための詩の書き方』より。引用元:ポエムコンシェルジュの選んだ一篇

 
 
つまるところ、「言葉にならない」というのが読み終えた当初の感想だった。
名作に出会うとそういうことが起こる。自分の語彙や知識や教養では、とても表現し切れないと確信させるほどの質量のデカい感動を食らわせられる、交通事故のような体験だ。
それでも当時の自分は、そんな思いをこんな風に言葉に残している。
 
 

いくつかの作品に出会ったことがある。
それらは「おとぎばなし」を越えてこちらの現実にまで物語の手を伸ばしてきた。
まおゆうはそこに加わった新たな一篇。愛と勇気、あるいは希望。
そんな名前の付く書棚に収まった新たな一冊。
11:49 AM May 14th TweetDeckから

 
当初、自分は『まおゆう』の感想文をことのほか素直にサクッと書けてしまうつもりでいた。
それが今ではまったくそうではないのは、読了後即座にTwitterの#maoyuタグの議論に参加したおかげで、
感動をスナップする暇もなく様々な発見と考察を重ねてしまったせいで自分の“『まおゆう』観”が多分にねじくれてしまったからで、
それ故、本稿はじっくりと基礎に立ち返ることをテーマとして進めていきたいと思う。
キーワードは、“そもそも”。
 
 
そもそも何故自分は『まおゆう』を語りたがるのか。
 
ひどく個人的な理由になる。
結論を先に述べるなら、#maoyuタグが現在自分の自己承認欲求を満たしてくれる唯一の場所だから、である。
 

Togetter - まとめ「「まおゆう」って何が面白いの?」

 
上の記事は『まおゆう』に興味を持つことができなかった、しかし大変謙虚でリスペクトに溢れた方による、
非常に精細かつ正鵠を射た作品概要なのだが、
 
 

1)ハヤリの経済学に興味があって
2)ノベルゲーム文体を読み解く素養があって
3)萌えキャラ好き

 
 
その中で挙げられたこの三点がものの見事に自分の属性を言い当てている。
自分のクリティカルな属性に関する話題を不特定多数と共有できるという喜び、そして悦びが、
自分を“『まおゆう』語り”中毒にしているのだ。
それは自分と『まおゆう』という作品との邂逅から繋がった、喜ばしい大いなる“出会い”だった。
 
しかし、名作が名作たる由縁は、こうして現実に起こった現象でさえも物語の一部として組み込まれている点にある。
そう、まさしく、『まおゆう』は出会った者に出会いをもたらす作品なのだ。
 
 
そもそも『まおゆう』とはどこから生まれた何なのか。
 
そんな『まおゆう』だが、現在この作品に関する議論の核となっている#maoyuタグは、混沌を極めている。
 
経済学の観点から見ると云々という話に始まり、
植民地思想が、左翼がファシストがという話から果ては朝鮮半島(!?)がどうたらなんて話も飛び出し、合間合間に読了報告とかおっぱいとか性感帯としての角とかが挟まっているという、
一般的なリア充なら脱兎の勢いで逃げ出しそうな魔窟と化しているのだが、
このような状況に至るにはきちんとした経緯がある。とりあえずは、以下のような感じ。
 
 

  1. 『まおゆう』そのものがVIP発祥の一発ネタだった
  2. #maoyuタグは、そもそも『まおゆう』に目をつけた桝田省治氏書籍化のための議論を目的として作ったものだった
  3. しかし、Twitterの仕様であるリツイートによって#maoyuタグ及びその近辺のクラスタの情報が流出


完全にオープン+更新速度が異常に速いというTwitterの特徴により、
作品そのものの認知より先に#maoyuタグの内容が流布してしまった

メディアリテラシーの高い層の中から賞賛だけが可視化された状態に対して疑問を持つ人間が続出し、単純な反発を招いた

揚げ足取りを目的とした議論が思想闘争に摩り替わってしまった

 
 
と、いうことなのだ。
順を追って補足すると、
まず、『まおゆう』が生まれたニュー速VIPという2ちゃんねる内の板を見て欲しい。
 
 
うん。そう、ゴミである。
まごうことなきゴミ山である。
 
一億スレッド総出オチ化というやつで、ここを定期的に参照してる奴とか、正直勢い以外は頭にないのである。ましてスレッドを立てる奴とか、いかに衝撃的なつかみを持ってくるかしか考えてないのである。
なにしろ毎秒新しい出オチスレッドが立つ激流の最中なので、つまらんスレッドはレスがつかず、レスがつかないスレッドは最新一覧に残れず、一瞬で下流に流されて消えていく。
いかにつかみ、そして伸ばすか。まるでどこぞの少年漫画雑誌のようなことを無償でクソ真面目にやっているこういうゴミ山に、『まおゆう』は生を受けた。
これから『まおゆう』を解釈する方は是非この事実をまず押さえて頂きたいと思う。
 
さて、こうした文脈を踏まえた上で最初の1スレ目を読んでみると、
『まおゆう』がドラゴンクエストの最終決戦で出てくる定番のシーンをスタートラインにしたどんでん返しから始まっている理由も理解できるのではないだろうか。
 
 

勇者「は? 悪はお前だけだ」
魔王「人間が魔族を殺していないとでも?
 魔族は悪で人間が善だって誰が決めたんだ?」

勇者「……っ」

魔王「そこで『俺が法だ!』とか『俺が神だっ!』とか
 『俺がガンダムだっ!』とか云えたら、お前も
 もうちょっと生きるのが楽なのになぁ……」

勇者「うるさいっ!!」

魔王「勇者は好きだから、この話はやめてやる」
勇者「好きとか云うな」

魔王「この資料を見ろ」
勇者「なんだ、これ……羊皮紙じゃないのか?
 薄くて白くてつるつるだ……」
魔王「プリンタ用紙だ。それはどうでもいい。書いてある
 ことが重要なんだ」

勇者「……えっと、需要爆発……雇用? 曲線?
 消費動向……経済依存率?」

魔王「この我のものとなれ、勇者よ」勇者「断る!」1より)

 
 
ファンタジー全開の世界の中に突如として現れる数々の経済用語。
ファンタジーの面の皮をリアリズムで引っぺがすというこの力技は、要するにただのつかみである。
ぶっちゃけ「おっ」と思わせれば別になんでもいいのである。
著者橙乃ままれ氏にとって、それが一番できそうだったのが経済だったからそうしただけなのだ。
 
まずは読者を転ばせる。
『まおゆう』はそんな単純なところから始まった大河だ。
 
 
次に、#maoyuタグの話。
大盛況のうちに幕を閉じ、まとめサイトとして独立コンテンツ化した『まおゆう』は、
俺の屍を越えてゆけ』などで有名なゲームデザイナー、桝田省治氏の目に留まった。
 

魔王「この我のものとなれ、勇者よ」勇者「断る!」 ママレードサンド著 - Alfa・MARS PROJECT

 
『まおゆう』という作品にビジネスの可能性を見た彼は書籍化プロジェクトを立ち上げ、
Twitter上で#maoyuというタグを作り、これを「彼の机」即ち商品化のための議論の場として利用することにした。
 
ここで重要なのは、「自分がクソだと思ったものを売りたがる商人などいない」という当たり前のことだ。
商品化とは、まず対象となる物の賞賛から始まって、“それのどこが『良い』のか(どこが売りなのか)”を詰めていく作業に他ならない。
評論だとかなんだとかいう視点から見れば、極上の賞賛と言えるだろう。
 
しかし、Twitterという限りなくオープンなフィールドでものすごく一般的な名詞をタグの名前に選んでしまったこと、
これが失敗だったと俺は思う。
 
Twitterでは、あらゆる情報がサクッとリツイートによって超高速で広がっていく。
結果として、本来クローズドな話題である「商品化のための分析」が、「『まおゆう』を読んだ人たちの感想」として、Twitterユーザのもとに広く流出していってしまった。
それが、後の混迷を招く原因となったことについては、残念ながら疑う余地がない。*1
 
 
……と、ここまででひと段落(時間切れ)。
感想文といって始めた割に、感想が全く書けていないのがアレだけど、
そう簡単に感想に至れないのがまたこの作品のすごいところとして、とりあえず本エントリを締めたいと思う。
 
次回はちゃんと内容に触れるつもりだが、まあまずは作品の規模を知ってほしくて、取り急ぎ投稿する次第。

*1:ちなみに桝田氏は割と早い段階でこのタグの限界に気付き、「机」をmixiコミュニティに移している。