今日から始めた、「15分掃除/15分トレーニング」の効用
図書館族になりそうなので運動する時間を作る。まずは@masumi_asano の15分掃除、あとは15分の腹式呼吸トレーニングを毎日やることを宣言しておく。とりあえず12時から開始。
Twitter @Nayut4
大学も二年次に入り、本格的に勉強に打ち込む時期に差し掛かった。
一年次はまず「法律」と「教育」という分野から入り、とっかかりを探した。
その結果、いくつかの道筋が見え、真に打ち込まなければいけない分野というものが見えてきた。
探す時期は終わり、手を動かす時期がやってきたぞということで、図書館で過ごしたりする時間が生活の大半を占めることに気付いたため、生活リズムを保つために毎日15分の掃除と15分の腹式呼吸トレーニングをやってみようと思い至った。
今までは土日にまとめてやっていたことを毎日少しずつに分けてやる。
極端な性格の自分のこと。なかなか大変な矯正作業だが、まあ四の五の言わずにやるったらやるのだ。
- はじめは掃除のイメージを変えるところから。
さて、15分掃除である。
元々は書籍になって出てるライフハックのようだけど、俺は声優の浅野真澄氏のTwitterで知った。
彼女は15分掃除の良さをこんな風に喧伝している。
ということで、15分程度なら自分でもできるかな(部屋も四畳半だし)と思って始めてみたんだが、
部屋が狭いお陰で案外かなり掃除は進む。
そもそも俺にとっての部屋が汚くなる理由は、大きいところで
- 洗濯物を畳まない
- 書類を整理しない
- 掃除機をかけない
の3つが挙げられる。
うちは押入れが広く収納がでかいので、部屋を占拠する大きなガラクタなどに頭を悩まされずに済むのがありがたいところ。
お陰で掃除機かけは5分も経たずに終わるので、あとの10分は溜まった洗濯物を畳む作業にまわせた。
といってもこっちの量が結構アレな感じなのだけど、毎日10分収納作業をすれば少しずつ減っていくだろう。
何より『ものぐさすぎる自分でもちょっと頑張るだけで確実に綺麗にしていける』という事実が自分を安心させる。
そう、掃除ってのは、何も年末の大掃除のような勢いでやらなくてもいい。
『毎日』『ちょっとだけの』整頓も立派な掃除であるということに、15分掃除は気付かせてくれた。
- “されど15分、たかが15分”
でもって、15分という時間の面白さは、『意外と色々できるんだけど、全部やれるほどには時間がない』というところにある。
実際のところ、今回は掃除機かけと洗濯物だけで終わってしまい、洗濯物はまだ残ってるし、書類整理には一切手を付けられていない。
だけど、掃除機かけは完了できた。それも割とあっさりとである(新居だからそんなに汚してないってとこもあるんだけどね)。
なので、メンタル的には「俺って結構できる奴なんじゃね?」みたいなエンジンのかかるところがある一方、
タスクが山積しているので、15分という限られた時間の中でどこまで作業を進められるかという一種の競争意識を持って取り掛かることができた。
実際作業するにあたって時間制限を設けるというのはものすごく効き目があるハックなのだが、それを職場で上手く導入するのはなかなか難しい。ともすれば強制感を意識させてしまうからだ。しかし、自分の家で自分に課す分には全く問題がない。何しろ100%自分のためになることが分かっている。
結果として、15分という極僅かな時間にしては、結構多くのものを片付けられたのではないかと思っている。
- トレーニングの15分は長い
続いて、15分の腹式呼吸トレーニング。
これはボイストレーニング教室で教わったトレーニングを15分かけてやるもので、
主に肺活力・横隔膜の力を鍛え、
姿勢の矯正・よく通る発声・代謝の活発化・二の腕、腹筋、背筋が鍛えられるなどといった効用がある。
3分の1に切ったストロー(くわえてトレーニング。100均で山ほど買える)と一枚のティッシュが必要。
以下の3つのトレーニングを各5分、1セットずつ行う。
- 腕立ての姿勢で腰を高く上げ、腕の肘から手までの部分で体を支え続けるトレーニング
- 頭上で手を合わせ、「人」の字の状態から息を吐きつつゆっくり腰を落とし、吸うと共に元の体勢に戻すトレーニング
- その場で行進しつつ、姿勢を保ちながら2拍ごとに勢いよく息を吐くトレーニング
元々歌のレッスンのものなので、5分程度の曲を3曲用意*1し、最後のトレーニング以外はリズム(8拍)に乗って7まで息を吐いて8で息を吸う(腹式)のを繰り返しながらやるものである。
これがね、ほんとにキツいんだ。
まず1のトレーニングで、腰と腕に相当来る。
2は横隔膜のトレーニングで、じわじわとボディブローのように効く。
3は長距離走なんかで味わった『肺が痛い』だとか『肋骨が刺さってくる』感覚を存分に味わえる。
肉体的にもかなりの疲労なのに、それに加えて腹式呼吸をしているから、実際には酸欠状態で運動させられているようなものになる。
僅かな時間なのに汗はバンバン噴き出るし、酸欠なので頭も回らなくなる。メタクソきつい。
だけど身体へのこうかはまさにばつぐんで、これだけで腹筋があからさまに鍛えられてるのが見た目でわかるのと、代謝が上がってきちんと腹が減るようになる。
なにより、これをやるのとやらないのとでは歌う時の発声が全然違う。通る声ってやつがこれをやらないとなかなか出ないのだ。
にしても、さすがにこれを15分というのは今の自分の体力ではなかなか厳しいものがある。
最初のトレーニングなんか、5分ずっと支え続けるというのはまず無理。
ここらへんは個人の体力に合わせて、15分ではなく5分から、というのもありかもしれない。
- 大切なのは、切り替えを覚えること
長々と書いて来たが、今回の試みにおける最も重要な意義は『15分間一つの作業にだけ集中する』ということだ。
この15分間は、他のことを一切考えずに掃除だけに集中する。
そして15分が経ったら、もうその日一日は掃除のことを意識しない、
そういう時間による切り替えを自分に覚えさせることができるのが、このハックの優れたところだと思う。
人生というのは、ただでさえ勉強しなければならないことも、頭を悩ませることも多すぎるもの。
全部に手をつけて結局どれも中途半端に終わるくらいなら、毎日少しずつでも一個一個『完了』させていくべきだろう。
今日も明日も明後日も、毎日ほんの少し無理をして生きていけたらいいな。
思索、そして『生まれいずる悩み』読後感想
今年に入ってから俺は一種の危機的状況に立たされていて、
9月半ばを過ぎたあたりからは尚それに悩まされる度合いが増えた。
人生が選択の連続であるならば、
子供が大人になるということは、生業を選ぶということなのかもしれない。
それはつまり、これまで漠然と信じ積み上げてきた「自らの才能」というものを清算し、見定めた上で取捨選択することに他ならず、
なぜそうするかと言えば、かつて幼児でなくなる頃に体験したように、自分の世界の中の他者を認知したからに他ならない。
「わたしの世界」は今や「わたし」だけのものではない。
お気に入りの玩具のように好き勝手に弄んで良いものではないのだ。
だからこそ、見定めなければならない。
無駄な事業拡大が倒産を招くように、才能の浪費は自滅を招くのではないか。
最近とみにそう思うようになった。
そもそも数年前から「これは大学に行かないとマズイ」と思い始めたのは、文章を書いていてどうにも頭打ち感がするようになってきたことによる。
中学受験からこっち、勉強らしい勉強もして来ないまま感性だけを用いて書いてきたがために、尖っているなら尖っているだけ、素直なら素直なだけの文章しか書けていないような、まるで写し描きだけを繰り返して絵描きを気取っているような感覚がつきまとうようになっていた。
単純に、引き出しが足りないんだと思った。
だから、知識を詰め込む機会と場所が必要だと思っていた。
癒しを求めて引きこもっていた時でさえ、自分の世界が自らの矮小な知の器のせいでこれ以上の広がりを見せないのではないか、という疑念を抱えて過ごしていた。
だから、別に興味を惹かれるわけでもない埃臭い文学にわざわざ目を通したり、図書館でなんとなく需要に合ってそうなものを借りてきたりしながら、貪欲に言葉を詰め込む作業を続けている。
傍から見ればこんなものはただの知的放蕩でしかないのに、せめて真摯にやることでその正当性を主張しようとしているあたりが、まだまだ俺がガキなところと言えるかもしれない。
そしてそんな流れの中で出会った
『生まれいずる悩み』(有島武郎著)という小説は、
どう考えても運命の出会いとしか思えない一冊だった。
DS文学全集のおすすめ機能はマジで侮れない。
何気なく開いた1ページ目から、ぶん殴られたような衝撃が走った。
私は自分の仕事を神聖なものにしようとしていた。
ねじ曲がろうとする自分の心をひっぱたいて、
できるだけ伸び伸びしたまっすぐな明るい世界に出て、
そこに自分の芸術の宮殿を築き上げようともがいていた。それは私にとってどれほど喜ばしい事だったろう。
と同時にどれほど苦しい事だったろう。
この小説は、脱リーマンの文学者がある日突然絵を見せに来た若者の才能にひどく感動するところから始まる。
若者とはすぐに音信不通になってしまったが、彼は十年後に再び絵を持って文学者のもとを訪れる。
しかし、十年の月日は若々しくも危うい才気に溢れた少年を、一介の漁師に変えていた。
文学者は朴訥とした雰囲気の若者を見て空白の十年を想像し、貧しさが人々の才能を奪うことを嘆き、漁師としての自分と絵描きになることを望む自分の二つを自らの内に持ち、矛盾に悩み続けているのであろう若者に、しかし何の言葉もかけてやれず、ただ神の啓示が下ることを祈る。
おれはどっちの生活にも真剣にはなれないのだ。
おれの絵に対する熱心だけから言うと、絵かきになるためには充分すぎるほどなのだが、それだけの才能があるかどうかという事になると判断のしようが無くなる。(中略)岩内の町でのたった一人の話し相手のKは、おれの絵を見るたびごとに感心してくれる。そしてどんな苦しみを経ても絵かきになれと勧めてくれる。
しかしKは第一おれの友だちだし、第二に絵がおれ以上にわかるとは思われぬ。
Kの言葉はいつでもおれを励まし鞭うってくれる。
しかしおれはいつでもそのあとに、うぬぼれさせられているのではないかという疑いを持たずにはいない。
芸術は虚業だ。
食えば腹を満たす魚と違って、創作物はその価値を自ら証明することができない。観測者にそれを委ねるしかない。
だからこそ、創作者は黄金の宮殿を作り上げたかのような充足感に満たされる時もあれば、無の中でただあがいているだけにしか思えなくなる時もあるのだ。
確かにわたしの作った芸術はそれに触れた誰かを幸せにしたかも知れない。しかし、果たしてその事実が、わたしという命をこの世に繋ぎとめることを可能にするだろうか?
そのように悩む者の目には、仕事に暮らす人々の姿はとても眩しく映る。
だがどうだろう、命を繋ぐために必死に仕事に追われる者がいる一方で、溢れんばかりの金を当たり前のように持ち、漫然と生を持て余す日々を送る者達もいる。
堅実に仕事に生きることは、果たして本当に正しいことなのだろうか?
そんな「冷静と情熱のあいだ」で揺れる若者の姿があまりに重なりすぎて、俺は泣きそうになった。
そして、その通り。確かに、その若者には誰も声をかけてやれない。
ましてどちらの道を選ぶべきかなどと、一生を左右するような言葉を心からかけてやることなどできるはずもない。
だからこんな風に、いつの時代も使い古された月並みな希望を述べてその場を去らざるを得ないのだ。
君よ、春が来るのだ。
冬の後には春が来るのだ。
君の上にも確かに、正しく、力強く、永久の春がほほえめよかし…
僕はただそう心から祈る。
俺達が伝えたいと思って発信したことは、
本当は誰にも伝わっていない。
半分以下にそぎ落とされているか、
それとも受け手が伝えたいこと以上のことを勝手に読み取っているか、
いずれにせよ、そのまま伝わることなどないのだ。
俺達は、感性(センス)を重んじるほどに、孤独なのである。
ところで、この小説では途中に三章ほど、文学者の想像した若者の生活が描かれる。彼は北海道岩内の早春を表現するために、ニシンの建網の修繕をする漁夫だとか、売り声を立てる金魚売りだとかの、日常を生きる人をひたすらに描いている。
その様は例えの連打をしつこく繰り返しているかのようで正直見苦しい印象を持ったのだが(俺もよくやるけど)、それを読んでいるうちにふと、
「文学者であるかどうかは、一つの物に関してどれだけ人よりも多くの表現ができるかどうかにかかっているのではないだろうか」
と思い立ち、
だとしたら、文学者とはなんとつまらないものであろう、と感じた。
しかし、人々が芸術に求めるものはまさにそれ。
新鮮な視点なのである。
目の前の林檎を人々が思いつかない言葉で語れることが、それほどまでに素晴らしいことなのだろうか?
俺にはわからなくなってしまった。
結局のところ、芸術もまた、他人を出し抜くものに過ぎないのだろうか。
全てが理で計れるわけではない。
だけど、それでも、確証を求めずにはいられない。
感動が人を生かす、確証を。
覚悟は強いるものにあらず
もとが稚拙なつくりなうえに寝起きで回転状態が最悪の脳味噌をふりしぼり、
今日はグズグズな思考を投下しておいてみる次第。
田舎は好きだが、それでも東京を選択する。 - ミームの死骸を待ちながら
面倒なので先に結論を書いておけば、
安易に「都会にはチャンスがあるよ」といった文言を振りかざして
「ちくしょーちくしょー都会人に、都会人にさえなればー!」
とか本気で思っちゃってるおバカをわざわざ都会に引っ張り出すのはやめてくれ、という話。
これにはただでさえ人だらけで街がすし詰めになってんのにこれ以上増えられたらたまらん、という感情や、
お前らがくだらん自分探しをしにきている間にどんどん国の屋台骨たる地方は弱化しているわけですが、
つーか遊びに来たなら一週間で帰れよ、
というわがまま純度100%な感情も含まれている。
東京生まれ東京育ちの人間からしてみれば、リンク先に挙げられた「メリット」は、
全て反転して捉えられる。
つまり、
"機会"が多い、とは、"試練"が多いということなのだ。
都会では全ての人間が"どこの誰とも知らぬ馬の骨"。
ならば、何をもって人は人を判断するのか。
それは、「その人の能力」に集約されている。
つまり、究極的には「そいつがどれだけ使える奴なのか」というところだけでその人の社会における「価値」が決定するのだ。
そこに人柄やセンスなどといった曖昧な感覚が評価基準として入り込む余地はない。
いや、むしろ、そうしたものでさえ「能力」のはかりの上にかけられている。
自分はどれだけ良い人で、どういったセンスを持っていて…
都会人はそうしたアピールを行うことで、人柄やセンスといった感覚的なものでさえ、自らのステータスとして活用している。
アピールを行わなければ自らの価値の一切が認められないという点、
そして有象無象が同じフィールドに無秩序に存在しているという点において、
都会とネットは酷似している。
そしてご存知の通り、ネットには常に"じぶん"を全力で叩き潰そうとする意思が存在する。
そして都会もまた然り、なのである。
むしろパイが限られているぶん、都会の方が弱者の「排除」に現実味がある。というか、現実として起こる。
上京を決意した人々よ、貴方方には増え続ける人口密度の中で"じぶん"という名の「ブランド」を常に磨き続け、
アピールし続け、そしてパイを他人から奪い続ける覚悟があるだろうか?
都会では「お前の限界はここまでだ」という言葉をオブラートに包み込まず直接的に投げかけられるが、
「そんなものあなたの価値観でしょ」と笑って受け流せるだけの図太さを持っているだろうか?
あるいは、本当にここまでだと思ったときに、甘んじてその限界を受け入れられるだけの覚悟はあるのだろうか?
そして、「ある」というのなら、
では、その上でさらに何を都会に求めるというのだろう?
それに具体的に答えられるのなら、都会に来るべきだが。
俺は、都会の四角く狭い空が嫌いだ。
3月工事でなんだか無機的なデザインに作り変えられている街も嫌いだ。
そして何より、その街を歩く時に、これほどまでに多くの人とすれ違うのに、
誰とも関わってはいけないのが窮屈で窮屈で、本当に嫌いだ。
だから、たまに田舎に行って、すれ違う人に笑顔で挨拶をされると、
ああそうだ、これが人だ、人というものだ、田舎というのは本当に良いなあと思ってしまう。
都会に来れば、確かに上に伸びることは田舎よりできるかもしれない。
しかし、他人を蹴落としのし上がることが、全ての人にとってそれほどまでに必要なことだろうか?
自分を試すという行為そのものに、果たして価値はあるのか?
田舎を飛び出して都会で「排除」されたとき、向上心を捨て、田舎に還ることはできるのか?
まわりを見れば、「排除」されても諦めることができず、
夢の残骸にすがりついて生涯馬車馬な日々を送っている上京人が目に付く。
向上心は、使い方を誤れば劇薬になると俺は考えている。
毎日が切磋琢磨で成長の止まらない都会というフィールドもそうだ。
俺はそんな場所に、都会は誰でもウェルカムとばかりにあらゆる人を誘致すべきではないと思う。
少なくとも、「自分探し」「自分を試す」などといった半端な精神修行の場としては「ナウ」ではない。
旅行しに来るならまだしも、拠点とする意味はないはずだ。
性差を活かすこと
mixiに書くつもりで書いていたらどう見てもはてな向けだと思ったので、
初エントリながらこちらにまるっと投下してみる。
痴漢の被害の話を女性が男性にすると、男性がイラっとしやすい理由
最近はてな界隈でやたらと痴漢に関する話題がホット。
女が「なんで私たちの言い分も聞かないで自己責任とか言うの!もっと女子の気持ちわかってよね!」っていうエントリをして、
男が「はいはい女はそうやって感情を叫べばなんでも受け入れられていいよね」っていうエントリをして、
お互いに燃え上がっている。見事なまでに燃え上がっている。
傍から見ればある種の蜜月、まさに冷静と情熱のあいだなんだが、
まー、あれ。身分を問わず、男女の性差という問題は老若男女が永遠に論題にし続けるものなのだろうなあ。
ぶっちゃけ眠くて死にそうなんだけど、なんとなく興味を惹いたので適当に考察を垂れ流してみる。
元エントリーはイラッと感じる理由として以下の2点を挙げているんだけど、これ、結構主観が入っているなと。
・痴漢被害の話は既に被害にあった後の話なので、対策が打てない。
・痴漢被害の話は「男はみんなこうだ」という内容を暗に含む。男が相談されて気持ち良くない。上記2点によって、一方的なサンドバッグにされてしまう。
「男はみんなこうだ」というニュアンスを含めるかどうかは、その話をする女性によるので、一般論としては通用しなさそう。
とりあえず、大変なことがあってその愚痴を話す/受ける時に「大変だったね」という共感が第一に立つべきというのは男女云々以前に当たり前のことであって、対策は当然のように二の次になるだろう。
この点においては女性の意見の方が正しいし、一般的な女性の優れた社会形成能力を考えても、男性は見習うべき行為といえるだろう。
しかし、ここで問題なのは、対策が「二番目に必要なこと」である、ということ。
共感だけで満足して終わったら、また次に同じような被害にあって、また同じような愚痴を垂れ流すことになるわけで、そんなのイヤだろ、常識的に考えて。
ならば、それを無くすためには何が必要かな?と考えるのが対策。
相談されたなら、男の方もその女が二度とそういう目に遭わないようにと一生懸命考えるものだ。
そうすることで、現実で一歩前進することができていくわけだから。
なので、女性は共感を得られて満足したら、男性から提示される「対策」にも耳を傾けてあげてほしいと思う。
それは確実に自分にとってなんらかの得になるものだからだ。
女性の社会形成能力は高いが、男性の問題解決能力もまた高い。
男が必死に考えた対策を女に聞いてもらえなかったり、邪険に扱われたりした時の切なさは、
多分セックスの後に男が女に背を向けてさっさと寝た時に、女が感じる切なさに似ている。と思う。
男女論は個人的に最も嫌うものの一つだが、
どうやら男女の思考というのはなんとなく違うように思えるものであるらしい。
であるならば、「どうせ考え方が違うんだからどうでもいい」ではなくて、
適材適所という観点から互いの"性差"を利用できる関係を目指したいものだ。