覚悟は強いるものにあらず

もとが稚拙なつくりなうえに寝起きで回転状態が最悪の脳味噌をふりしぼり、
今日はグズグズな思考を投下しておいてみる次第。


田舎は好きだが、それでも東京を選択する。 - ミームの死骸を待ちながら


面倒なので先に結論を書いておけば、
安易に「都会にはチャンスがあるよ」といった文言を振りかざして
「ちくしょーちくしょー都会人に、都会人にさえなればー!」
とか本気で思っちゃってるおバカをわざわざ都会に引っ張り出すのはやめてくれ、という話。


これにはただでさえ人だらけで街がすし詰めになってんのにこれ以上増えられたらたまらん、という感情や、
お前らがくだらん自分探しをしにきている間にどんどん国の屋台骨たる地方は弱化しているわけですが、
つーか遊びに来たなら一週間で帰れよ、
というわがまま純度100%な感情も含まれている。




東京生まれ東京育ちの人間からしてみれば、リンク先に挙げられた「メリット」は、
全て反転して捉えられる。
つまり、



"機会"が多い、とは、"試練"が多いということなのだ。

都会では全ての人間が"どこの誰とも知らぬ馬の骨"。
ならば、何をもって人は人を判断するのか。
それは、「その人の能力」に集約されている。
つまり、究極的には「そいつがどれだけ使える奴なのか」というところだけでその人の社会における「価値」が決定するのだ。


そこに人柄やセンスなどといった曖昧な感覚が評価基準として入り込む余地はない。
いや、むしろ、そうしたものでさえ「能力」のはかりの上にかけられている。
自分はどれだけ良い人で、どういったセンスを持っていて…
都会人はそうしたアピールを行うことで、人柄やセンスといった感覚的なものでさえ、自らのステータスとして活用している。


アピールを行わなければ自らの価値の一切が認められないという点、
そして有象無象が同じフィールドに無秩序に存在しているという点において、
都会とネットは酷似している。
そしてご存知の通り、ネットには常に"じぶん"を全力で叩き潰そうとする意思が存在する。
そして都会もまた然り、なのである。
むしろパイが限られているぶん、都会の方が弱者の「排除」に現実味がある。というか、現実として起こる。


上京を決意した人々よ、貴方方には増え続ける人口密度の中で"じぶん"という名の「ブランド」を常に磨き続け、
アピールし続け、そしてパイを他人から奪い続ける覚悟があるだろうか?
都会では「お前の限界はここまでだ」という言葉をオブラートに包み込まず直接的に投げかけられるが、
「そんなものあなたの価値観でしょ」と笑って受け流せるだけの図太さを持っているだろうか?
あるいは、本当にここまでだと思ったときに、甘んじてその限界を受け入れられるだけの覚悟はあるのだろうか?


そして、「ある」というのなら、
では、その上でさらに何を都会に求めるというのだろう?


それに具体的に答えられるのなら、都会に来るべきだが。




俺は、都会の四角く狭い空が嫌いだ。
3月工事でなんだか無機的なデザインに作り変えられている街も嫌いだ。
そして何より、その街を歩く時に、これほどまでに多くの人とすれ違うのに、
誰とも関わってはいけないのが窮屈で窮屈で、本当に嫌いだ。
だから、たまに田舎に行って、すれ違う人に笑顔で挨拶をされると、
ああそうだ、これが人だ、人というものだ、田舎というのは本当に良いなあと思ってしまう。


都会に来れば、確かに上に伸びることは田舎よりできるかもしれない。
しかし、他人を蹴落としのし上がることが、全ての人にとってそれほどまでに必要なことだろうか?
自分を試すという行為そのものに、果たして価値はあるのか?


田舎を飛び出して都会で「排除」されたとき、向上心を捨て、田舎に還ることはできるのか?
まわりを見れば、「排除」されても諦めることができず、
夢の残骸にすがりついて生涯馬車馬な日々を送っている上京人が目に付く。


向上心は、使い方を誤れば劇薬になると俺は考えている。
毎日が切磋琢磨で成長の止まらない都会というフィールドもそうだ。
俺はそんな場所に、都会は誰でもウェルカムとばかりにあらゆる人を誘致すべきではないと思う。
少なくとも、「自分探し」「自分を試す」などといった半端な精神修行の場としては「ナウ」ではない。
旅行しに来るならまだしも、拠点とする意味はないはずだ。