思索、そして『生まれいずる悩み』読後感想


今年に入ってから俺は一種の危機的状況に立たされていて、
9月半ばを過ぎたあたりからは尚それに悩まされる度合いが増えた。


人生が選択の連続であるならば、
子供が大人になるということは、生業を選ぶということなのかもしれない。
それはつまり、これまで漠然と信じ積み上げてきた「自らの才能」というものを清算し、見定めた上で取捨選択することに他ならず、
なぜそうするかと言えば、かつて幼児でなくなる頃に体験したように、自分の世界の中の他者を認知したからに他ならない。


「わたしの世界」は今や「わたし」だけのものではない。
お気に入りの玩具のように好き勝手に弄んで良いものではないのだ。
だからこそ、見定めなければならない。
無駄な事業拡大が倒産を招くように、才能の浪費は自滅を招くのではないか。
最近とみにそう思うようになった。




そもそも数年前から「これは大学に行かないとマズイ」と思い始めたのは、文章を書いていてどうにも頭打ち感がするようになってきたことによる。
中学受験からこっち、勉強らしい勉強もして来ないまま感性だけを用いて書いてきたがために、尖っているなら尖っているだけ、素直なら素直なだけの文章しか書けていないような、まるで写し描きだけを繰り返して絵描きを気取っているような感覚がつきまとうようになっていた。


単純に、引き出しが足りないんだと思った。
だから、知識を詰め込む機会と場所が必要だと思っていた。
癒しを求めて引きこもっていた時でさえ、自分の世界が自らの矮小な知の器のせいでこれ以上の広がりを見せないのではないか、という疑念を抱えて過ごしていた。


だから、別に興味を惹かれるわけでもない埃臭い文学にわざわざ目を通したり、図書館でなんとなく需要に合ってそうなものを借りてきたりしながら、貪欲に言葉を詰め込む作業を続けている。


傍から見ればこんなものはただの知的放蕩でしかないのに、せめて真摯にやることでその正当性を主張しようとしているあたりが、まだまだ俺がガキなところと言えるかもしれない。



そしてそんな流れの中で出会った
『生まれいずる悩み』(有島武郎著)という小説は、
どう考えても運命の出会いとしか思えない一冊だった。
DS文学全集のおすすめ機能はマジで侮れない。

何気なく開いた1ページ目から、ぶん殴られたような衝撃が走った。

私は自分の仕事を神聖なものにしようとしていた。
ねじ曲がろうとする自分の心をひっぱたいて、
できるだけ伸び伸びしたまっすぐな明るい世界に出て、
そこに自分の芸術の宮殿を築き上げようともがいていた。

それは私にとってどれほど喜ばしい事だったろう。
と同時にどれほど苦しい事だったろう。

この小説は、脱リーマンの文学者がある日突然絵を見せに来た若者の才能にひどく感動するところから始まる。

若者とはすぐに音信不通になってしまったが、彼は十年後に再び絵を持って文学者のもとを訪れる。
しかし、十年の月日は若々しくも危うい才気に溢れた少年を、一介の漁師に変えていた。

文学者は朴訥とした雰囲気の若者を見て空白の十年を想像し、貧しさが人々の才能を奪うことを嘆き、漁師としての自分と絵描きになることを望む自分の二つを自らの内に持ち、矛盾に悩み続けているのであろう若者に、しかし何の言葉もかけてやれず、ただ神の啓示が下ることを祈る。

おれはどっちの生活にも真剣にはなれないのだ。
おれの絵に対する熱心だけから言うと、絵かきになるためには充分すぎるほどなのだが、それだけの才能があるかどうかという事になると判断のしようが無くなる。

(中略)岩内の町でのたった一人の話し相手のKは、おれの絵を見るたびごとに感心してくれる。そしてどんな苦しみを経ても絵かきになれと勧めてくれる。

しかしKは第一おれの友だちだし、第二に絵がおれ以上にわかるとは思われぬ。

Kの言葉はいつでもおれを励まし鞭うってくれる。
しかしおれはいつでもそのあとに、うぬぼれさせられているのではないかという疑いを持たずにはいない。


芸術は虚業だ。
食えば腹を満たす魚と違って、創作物はその価値を自ら証明することができない。観測者にそれを委ねるしかない。
だからこそ、創作者は黄金の宮殿を作り上げたかのような充足感に満たされる時もあれば、無の中でただあがいているだけにしか思えなくなる時もあるのだ。

確かにわたしの作った芸術はそれに触れた誰かを幸せにしたかも知れない。しかし、果たしてその事実が、わたしという命をこの世に繋ぎとめることを可能にするだろうか?

そのように悩む者の目には、仕事に暮らす人々の姿はとても眩しく映る。
だがどうだろう、命を繋ぐために必死に仕事に追われる者がいる一方で、溢れんばかりの金を当たり前のように持ち、漫然と生を持て余す日々を送る者達もいる。
堅実に仕事に生きることは、果たして本当に正しいことなのだろうか?


そんな「冷静と情熱のあいだ」で揺れる若者の姿があまりに重なりすぎて、俺は泣きそうになった。
そして、その通り。確かに、その若者には誰も声をかけてやれない。
ましてどちらの道を選ぶべきかなどと、一生を左右するような言葉を心からかけてやることなどできるはずもない。


だからこんな風に、いつの時代も使い古された月並みな希望を述べてその場を去らざるを得ないのだ。

君よ、春が来るのだ。
冬の後には春が来るのだ。
君の上にも確かに、正しく、力強く、永久の春がほほえめよかし…
僕はただそう心から祈る。


俺達が伝えたいと思って発信したことは、
本当は誰にも伝わっていない。

半分以下にそぎ落とされているか、
それとも受け手が伝えたいこと以上のことを勝手に読み取っているか、

いずれにせよ、そのまま伝わることなどないのだ。
俺達は、感性(センス)を重んじるほどに、孤独なのである。


ところで、この小説では途中に三章ほど、文学者の想像した若者の生活が描かれる。彼は北海道岩内の早春を表現するために、ニシンの建網の修繕をする漁夫だとか、売り声を立てる金魚売りだとかの、日常を生きる人をひたすらに描いている。

その様は例えの連打をしつこく繰り返しているかのようで正直見苦しい印象を持ったのだが(俺もよくやるけど)、それを読んでいるうちにふと、
「文学者であるかどうかは、一つの物に関してどれだけ人よりも多くの表現ができるかどうかにかかっているのではないだろうか」
と思い立ち、
だとしたら、文学者とはなんとつまらないものであろう、と感じた。

しかし、人々が芸術に求めるものはまさにそれ。
新鮮な視点なのである。

目の前の林檎を人々が思いつかない言葉で語れることが、それほどまでに素晴らしいことなのだろうか?
俺にはわからなくなってしまった。
結局のところ、芸術もまた、他人を出し抜くものに過ぎないのだろうか。

全てが理で計れるわけではない。
だけど、それでも、確証を求めずにはいられない。
感動が人を生かす、確証を。