みなしごは文学フリマに海を観た【第十一回文学フリマ】

俺は最先端が好きだ。
最先端が最も『速い』からだ。
もっとも最先端は決して優れているわけではない。
しかし、優れたものになるためには、
一度最先端に立たなければならない。
何故か。


おそらくは、それこそが己の道を開く唯一一点の突破口だからだ。




いやー、twitterってのはつくづくすごいね。
つぶやく内容が浮かばないからやらない、とか、
つぶやくのが嫌だからやらない、とか、
別につぶやかなくてもいいんだよ、と思う。
twitterの本当に面白いところは、自分の興味のある分野の最もフレッシュで上質な情報がどんどん流れ込んでくることだ。
つぶやきとか金魚の糞やで。


そんなわけで開催前日に文学フリマなんてクソ面白そうな即売会の存在を知り、即刻仮病を発病してバイトをブッチぎって蒲田まで一人で行ってきた。こういうデカいイベントがある時ほど、東京に生まれたのを感謝する時はないな。


ざくっと説明するとコミケから文字畑を抜き取ったまんまの感じの同人誌即売会で、各アルファベット毎20サークルに小ホールにも100サークルぐらい詰めてるから、その規模推して知るべし。
五千円ぐらい使うかなーと思ったら甘かった、一万五千円だった……
飯の回数に当分の間ペナルティを食らうことになりそうです。


フリマでは小説、詩、批評、評論、写真、ルポ、一通り揃ってたので、一通り買ってきた。
意外だったのが、現代詩とクラブ関係の同人誌が思いのほか多かったこと。
色んなとこでMOGRAの文字を見る。あと、思った以上に詩って手軽にチャレンジされてるなー、とか。
思った以上にかわいい娘多いなー、とか。


早慶文芸部から極左フェミニストからそこらへんのおっさんまで色んな人が色んな本を出してて、
ざっと見た感じ、出すことを楽しんでる人と、きっちり装丁からプロデュースして採算取りに来てる人とに分かれてた。
でも全体的にガチで紙でオピニオン出して行ってて、すげぇな、ファンジン文化。


多分出展された作品の半分ぐらいに目を通したんだけど、
全体の印象を一言で表すなら「野放図」(石原的な意味じゃないよ)。
クオリティにこだわらないという意味じゃない。むしろクオリティの低いものをあまり見なかった。
それ以前に、自分の書くものを一つの文芸作品として自信を持って肯定しているような、そんな雰囲気を感じた。


それと、若い文芸家たちは皆ことのほか「今」を大切にしよく観察しているが、それによって観えてきたものを割とそのまま切り取っていて、そうすることにあまり躊躇いを感じていない。とても素直。


俺はそんな彼らの姿に、海外に目を向けた時とはまた違った『世界の深み』を感じた。
あれ、意外と日本いけるんじゃね?みたいな。


海外では、日本の何倍もの厚みのある差別と格差が存在し、夜中に裏道に入ると刺されて死ぬ。そんな場所で当たり前のようにサバイブしてる人々を見ると、単純にスケールの違いを感じる。奴らの方がデカい。拡い。単純に。そいつぁ、大したもんだ。


対して、俺が若き文壇に感じたのは、縦の大きさ……深さだった。
文芸は、優しい。
なんて優しい世界なのだろう。
あの場にいる彼らが醸し出していた圧倒的な自己肯定感。
文芸の冠を被るのは易しいことではないけれど、でも、


ひとたびそれを被れば、淋しい呟きも、儚い呻きも、全てが「文芸」になる。


作品となり、意見となり、個性となる。
なんて、優しい世界なのだろう。


俺は今日初めてダイノジ大谷が言ってる事の意味がわかった。


一生背負っていくものがあるとしたら、その答えなんぞいらないからネタにだけしたいなって思った。
芸人になって、なんとやさしい世界だと思ったとき、そう思ったからだ。
ここでは悲劇が喜劇に変わる。
なんてやさしい世界なのだろうか。
排泄物のように垂れ流せば誰かが見てくれたりする。
ネタにすれば楽しんでくれるものがいる。
賛否があって当然だ。
でも少なくともここにいていいんだといわれているあいだは垂れ流しつづけたい。

ダイノジ大谷の「不良芸人日記」: 再録 ・不良芸人日記


芸とは、文化とは、雅とは、
なんて、なんて優しいのだろう。


孤独はなく、依存もなく、
ただ暖かい海のように、文化は『ぼくたちがぼくたちであること』を受け入れてくれる。


彼は何故歌うのだろう。
彼女は何故描くのだろう。
彼は何故撮るのだろう。
彼女は何故踊るのだろう。


俺は何故書くのだろう。


俺達は、何故、『創る』のだろう。



それは、『海』を思い出すためだ。
一つだった時のことを。一つであることを。一つであり続けることを。



何度孤独に苛まれ、何度現実に押し潰されても、人が生きていけるとしたら、それが答えだ……今回のイベントで俺はそんな思いに至った。


きっとこれからも意識が昏く閉ざされる時が来るだろう。
寂しさからは永遠に解放されないんだろう。
だけど、その時、彼は歌うことで、彼女は描くことで、彼は撮ることで、彼女は踊ることで、そして俺は書くことで、生きる喜びを思い出すのだろう。


彼らのエネルギーに奮い立たされる以上に、深く深く癒された。
なんだ、いいんじゃん、これで、みたいな。


今日は、本当に行って良かったなぁ。
次回の初夏の開催時には正直出展したいと思っている。
心当たりのある人には一応これから声をかけてみたいとぼんやり考えてるんだけど、もしやってみたいなー、って人がいたら一緒にやってみませんか。


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